本日から住宅ネタに復帰としましたが、
書き進めていて気付いていたことがあるので、書き留めておきたい。
というのは、昨日まで数回にわたって書いた「阿部比羅夫」の
北方遠征に関連してのことです。
この遠征ではヤマト王権側の狙いは安定的な北方交易の確保だっただろうと
思います。日本書紀にわざわざ「生きたクマ2匹と毛皮70枚」と
その「交易品」が記されているのは、
こうした交易品が王権社会で珍重され「威信材」として
各地のヤマト政権への服従を誓う豪族に対して「下賜」される
その対象だったのではないかと推測されるのです。
この時代以降、奈良期の黄金発掘などもあって北方への関心が
非常に強くなるのは、こうした交易の魅力が深く浸透した証しだと思える。
一方で、阿部比羅夫は北海道現地の2つの勢力のうち、
続縄文の社会側と同盟関係になったことが見て取れる。
戦争後、王権の地方統括システムとしての「郡領」を「任命」した
事実もあるし、1000人もの「軍勢」が奥尻島攻撃に対して
後方兵站を担ったとされたりもすることから自然な理解でしょう。
既存の石狩低地帯以西の続縄文社会は、北東アジアからオホーツク海岸に
勢力拡大してきた「粛慎」オホーツク文化社会の脅威にさらされていた。
その脅威表現で「北方から大船で押し寄せる」と日本書紀に記述。
ということは、社会として大型海生動物・鯨などのハンティングに
高い能力を持っていたとされるオホーツク文化の人々は、
そうした優越的軍事行動力として、生業との関連で
「大型舟運」に先進的能力を持っていたことが推定される。
石狩低地帯以西の続縄文社会が持つ伝統的な舟運手段は
丸木舟程度だったので、彼我の機動力に大きな格差があった。
この軍事力の格差について、阿部比羅夫の日本王権社会に助けを求めた、
という流れがいちばんスッキリと腑に落ちるのだと思う。
瀬川拓郎さんの著述での解析で奥尻島で戦闘が行われ、
島に立てこもったオホーツク文化の人々を攻撃し陥落させた主戦力は、
王権側の「水軍力」だったのだろうと思われるのです。
ただし、兵力自体は王権社会の構成員だけではなく、
東北北部の「蝦夷」の人たちが担っていたとされる記述も見られる。
写真は明治初期の石狩川周辺での舟運の様子です。
オホーツク文化と近縁と思われる北東アジアの民族「ニヴフ」社会の
当時としては大型機動力としての前述の「大船」イラストと酷似する。
どうもこれが660年頃の阿部比羅夫遠征のキーポイントと思われてなりません。
Posted on 11月 13th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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