みなさんは「オホーツク文化(人)」って、ご存知でしょうか?
たぶん北海道に住んでいて考古学に興味のある人くらいしか、
知識を持っているヒトはいないのではないかと思います。
日本列島にはさまざまな人々が去来した。
最新の核DNA解析を信じれば渡来の波はおおむね3波に分かれる。
縄文のひとびとが2万年−4万年前ころに渡来して基層を形成した。
きわめて人類古層のアジア展開人種のDNAとされているそうです。
かれらが旧石器の様式文化も遺跡に遺しながらこの列島に姿を現し、
15.000年前くらいからは縄文文化を形成した。
それまでのキャンプ移動・狩猟中心から、定住的な漁撈+自然採集が生業になった。
その後、第2波の渡来民は縄文の末期で、『海の民』だった可能性があり、
日本語の祖語をもたらした人たちではないかとされる。
そして第3波は弥生時代以降。
生産手段としての本格的「農耕社会」の集団的移住。
さらに歴史年代に白村江の敗戦(663年)の結果、朝鮮半島の国家であった、
百済からの集団移住が最後の3波目を締めくくったとされる。
こういった世界各地からの「渡来」があり、婚姻などのブレンドがあって、
基本的な民族形成がされた、という説が有力とされてきている。
<国立遺伝学研究所・斎藤成也教授の説に準拠しました>
で、このオホーツク文化人というのは縄文人のDNAを色濃く残している
アイヌ民族での混血に関わるミニ「渡来」のようで、
北東アジア・アムール川流域地帯から、主に大型の海獣を獲物として
追ってきて北海道の東部、オホーツク沿岸地域に定住した人々。
特徴的にはクマのアタマを神聖祭器として祀る風習を持っていた。
そのひとびとの居住痕跡を発見し復元住居としたのがこの家。
わたし自身の「古民家」探究のなかでもかなりインパクトのあった住居。
平安期日本の宮廷社会では海豹の皮革が貴族の女性の身を飾ったし、
鷲の羽根が、貴族の装身具として最高級素材とされたそうです。
そうした素材は、オホーツク文化人の狩猟生活の産物であり、
奥州藤原氏などの交易中継を経て、日本国家と交易を行っていた。
やがて、クマの神聖祭器風習をアイヌ民族に残して混血同化していったと。
そういうかれらの「住居」なのであります。
どなたが復元設計に当たられたかは知りませんが、たぶん北海道の
古建築について知識を持った建築の先生が関与されたに違いありません。
現地に置かれている説明資料によると
「約1,000年前のオホーツク文化の竪穴住居を二つ復元しました。
手掛かりは柱や炉の位置、焼け残った柱や壁の材料だけで、
屋根や柱の組み方は想像した部分が多いのです。この時代の人々の
家を作る道具は、鉄製の斧やナイフのほかは、木や骨の道具でした。
ですから家を作るのに使う木の性質や特徴をよく知っていて、
加工する技術が高かったと言えるでしょう。」と書かれています。
そして「材料」として以下の記載がある。
「壁〜板143枚。
柱や母屋材〜太い丸太55本。細い丸太60本。
結束材〜ブドウつる 450m、シナ縄 600m
屋根材〜白樺の樹皮 300枚(長さ3m径30cm300本)
床材〜角6本 板22枚」
このインテリア写真は2枚の写真を接合合成したもの。引きが取れず2枚で撮影。
一部不整合部分がありますが、カメラマンの力量足らずです、ご容赦を(笑)。
内部はごらんの通りですが、炉の周りには「ヒカリゴケ」が異彩を放つ。
Wikiによると<1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物。
その名が示すように洞窟のような暗所においては金緑色(エメラルド色)に光る。>
ということで、素晴らしい装飾効果を見せてくれている。
わたしの取材経験でもっとも感動したインテリアの演出装置。
まるで千年の時を超えて生物痕跡として、住んでいたひとたちからの
メッセージのようにその光彩がこちらに伝わってきた。
初めて訪問してからもう12年が経過していますが、
いまもときどき熱に浮かされるように思い出す住宅です。
Posted on 8月 8th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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