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【ニッポン技術の揺りかご。 農業土木】

ときどき、こんな風景の中を散歩しております。
現代の重機を使って幾何学的にクッキリと土地を区画して
機能的な農業耕作地を造成している。まぁ当たり前の光景、ですが。
農業という人類の創造した社会システム。
それまでの狩猟採集という生存手段に対して、圧倒的な人口培養力があった。
日本列島社会では既存の縄文的生存システムに対して
あらたに、たぶん大陸や半島地域から農業という
「生産システム」社会そのものが「進出」してきたのだろうと思います。
その進出の「波動」には時期的な「ズレ」があって、
初期に進出した社会が、一定期間の熟成を経て、
連合的なつながりを生み出し、八百万の神という形式で根付いていた。

で、その社会では、農業土木という集団的な労役を基盤とした
支配と被支配の関係が当然のように存在していたのでしょう。
それまでの縄文的平等思想に対して、権力という
「見たこともない」というか、物理的強制力以上の力関係での目的的集団労役。
伝統的な縄文社会にして見れば、まことに不可思議だっただろう。
「あいつらはどうしてあんなことをしているのか、できるのか?」
初期の社会の遺跡である吉野ヶ里などを見学すると
こうした農業土木のための「道具」としての鉄器が、
集団社会の権力層によって「管理」されていた状況が見える。
田畑を造営するための基本用具としてのクワ・スキなどが管理されていた。
そもそも鉄の生産システムも管理されていた様子がうかがえる。
その後のヤマト政権の多賀城などの「遠の朝廷」でも痕跡がある。
ある時期まで、こうした社会と権力層が古墳のような大型土まんじゅうを
一生懸命に生み出していったのは、こうした管理農業土木の証しではないかと。
集団的労役で盛大に土をいじり回して、結果として
その残土を古墳というような形式にして積み上げていったのではないか。

こうした農業土木の進化過程は地域に根付いた技術資産になった。
地形と風土性を設計的に「読み取って」耕地の配置計画を行い
農業用水利用計画も、水田農業の結果、高度化していったのだろう。
たぶん、縄文システム社会の伝統派住民からすると、
写真のような光景は、許しがたい「自然破壊・環境破壊」と見えただろう。
しかし列島社会全域にわたってのこうした社会の伝播・波動は
それによってもたらされる経済発展で、縄文システムに置き換わっていった。
今日、われわれ社会では、こうした写真のような風景は
むしろ、郷愁を誘うというような印象が支配的なのではないか。
縄文的自由からすれば、奴隷意識の先に郷愁まで持つのかと思うだろうか?
土地を人為的に操作して、改変して経済的利得を獲得する。
その最大のテコが農業土木であり、またそこで培われた技術が
さまざまに変位していって、精緻な水田農業に特化進化した細密な技術が
日本独特の技術進化の起動力になった、そんな想像を掻き立てられます。

わたし的には、そんな妄想が似つかわしくみえる風景ですが、
やはりのどかな「自然の光景」という印象の方が多数派でしょうか?

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