大阪四天王寺・番匠堂は、日本における大工技術の始祖として
番匠(大工)達から尊崇されている聖徳太子を祀り、
曲尺(かねじゃく)を携えたそのお姿より、世に曲尺太子と称される。
四天王寺は推古天皇元年(593年)に、聖徳太子が
鎮護国家・済世利民のご請願により創建され、その際、
伽藍建立にあたり、百済国より、最新の番匠の技術を招来された。
また、聖徳太子は七堂伽藍の建立にはやむを得ず
大地の産物の命を絶ってしまうので、金槌(かなづち)・鋸(のこぎり)
・錐(きり)などに仏性を入れて、番匠器(大工道具)で「南無阿弥陀仏」の
名号を書かれ、大工の工事安全と伽藍の無事建立を
祈られたと伝えられています。〜由緒書き要旨。
っていうようなことは、普段北海道にいるとまず、知り得ない(笑)。
聖徳太子さんの時代は日本での生産力が飛躍的に向上して
人口が大きく伸びた成長期だったとされています。
そしていまに残るような「大型公共工事・建築」が始原的に始まった。
この大阪・四天王寺は聖徳太子が発願して「鎮護国家」思想を
この列島社会に根付かせる使命を持って造営された。
しかし、当時の最新建築である仏教伽藍の建築の設計・施工の技術がなかった。
三内丸山や出雲大社の巨大建築などを作った木造技術はあったけれど、
美しくもあり、権威的でもあったに違いない瓦屋根を
造作したり、それを維持させる構造設計などはその入れる仏教といっしょに
まるごと輸入するしかなかった。
やはり同様の状況だった明治初期の西欧文明受容と似ていたのでしょう。
日本最古の建築会社・金剛組の始祖も朝鮮半島からこのとき来日した。
特殊建築であった仏教伽藍・四天王寺の建築維持のために、
「お抱え宮大工」という立場が与えられて日本に定住することになった。
この「番匠堂」の左右に並ぶ寄進者名にはその金剛組をはじめ、
有力な大手ゼネコンなどの名前が記されていました。
翻って、いま日本の住宅技術を革新しつつある
「高断熱高気密」技術というものは、日本社会のなかで
近未来、将来的にどのような経緯をたどっていくのか、興味があります。
まぁこの四天王寺のような権威的なありようにはまさかならないでしょうが、
日本の住宅建築技術史のなかには、確実に残っていくでしょう。
利休さんたちが始めた「茶の湯」が、茶の間という
独特の建築空間指示用語として一般化したような程度には
残っていくのではないだろうかと、空想していますが、さて。
Posted on 4月 21st, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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