既報のように、先週16日に東京で表題のような「討論会」が行われました。
建築知識ビルダーズの木藤さんにお願いして、その又聞きですが
討論の様子を断片的ながら知ることができました。
まことに身に余ることながら、わたしのブログ記事に対して
大きく反応していただいた様子を知ることができました。
もとよりわたしは、誌面での記事や写真でしか確定的な情報を受け取れず、
またこの「討論会」の様子も自分の目と耳で得た情報ではありません。
その前提をご理解いただいた上で、再度感想を書かせていただきます。
結論として、わたしが書いた、川島範久さんの巻頭記事への違和感については
それ以降の文章において、注意書きをつけているということでした。
わたしが大きな論旨の「飛躍」と感じた以下の部分、
「一方、自然と一体化し、自然のリズムが実感できる環境は、
その変化によって時折、環境工学的に不快になり得る。しかし、
その変化を楽しめる度量をもてた時、それは歓び(Delight)にも
なり得るのである。それは他者と共に暮らす歓び(と苦労)と等しいと思う。
そして、その歓びと苦労を通して自身の価値感を見直し、自身も変化する。
その人間の変化こそが現在求められているのである。」
という記述に続いて、確かに
「しかし、自然との結びつきを認識できる建築と言ったとき、
ただガラス張りにして外に開け放てば良いわけではない(中略)ある一定の
快適性と省エネ性が担保されていなければ、自然を楽しもうにも楽しめない」
というように記載され、建築家と環境工学者の協働云々と書かれています。
しかし、前段の断定性の強い記述に対して、後段の部分は
「ある一定の」というような、必ずしも明瞭ではない論旨になっていて、
前提としての意味合いに乏しいと、わたしには受け取れた次第です。
単純に、無断熱の壁でも単板ガラスの窓でも「ある一定の」要件は満たすのか。
違和感を持たざるを得ない前段の断定調に対し、もしこれを
前提的意味合いとして追記的に書かれたのだとすれば、
この「ある一定の快適性と省エネ性」について、
詳細内容の開示・論述が不可欠ではないでしょうか。
まさに北海道・寒冷地では、いやいまや全国の多くの志ある住宅の作り手が
この「ある一定の快適性と省エネ性」について
真剣にそのレベルを日夜問題にし、ユーザー利益を考えて格闘している。
これは日本建築にとって画期的な「ユーザー利益」ファーストの
地域としての建築の努力の結果なのだと思うのです。
そしてそのような建築技術の営為が国の住宅政策に大きな起動力を与え
今日のような基準義務化の流れになってきているのだと思います。
ことは「ある一定の」というレベルのことではないと思われるのです。
そういうことから全体記述としては、先述前段の記述が以降の記事展開の
起点であり、結論になっていると読み取れたのです。
そして、環境住宅という特集の記事にもかかわらず、
北海道における高断熱高気密住宅技術発展について触れていないという
最大の問題ポイントと合わせ、疑問を呈させていただいた次第です。
寒冷気候と対峙して生き延びてきた北での先人の苦闘を思うとき、
高断熱高気密住宅技術への無視・スルーは看過すべきでないと考えました。
ただ、このようなわたしの疑問・意見は新建築住宅特集に掲載された
巻頭「記事」についてであって、以降の討論において、
川島氏は「ヒート20」に準拠するように住宅設計を進められていると知り、
同意できる姿勢を持たれていると情報も受けました。
そういった志向をもった建築家というリスペクトは十分に持っております。
Posted on 6月 19th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 住宅性能・設備
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