週末を沖縄で過ごしております。
どんな時代にも、日本的中華思想では常に
都や中央は上位であり続けたいものであり、鄙、地方は、その下に
位置すべきだというように、無意識に自縄自縛的意識を持っている。
その実態である権力内の人間それ自体の出自が鄙・地方であっても、
いったんそういうヒエラルキーができあがると、
その秩序構造に人間は、保守の側に回ろうとするのが常。
それは、そういうふうに保身した方が有利だということに由来する。
そういう「押しつけ」に直面させられたとき、
鄙・地方の側の絶望感、無常観はハンパない。
ほとんど中身のない上位意識の押しつけに、マジマジと見返してしまう。
ある醜さをそこに見てしまって、たまらなくなる。
しかし歴史は一方では、果てしのない「下降」であることも確か。
この下降というのは、鄙や地方が「発展」して
それまでの中央意識を破綻させ、あらたな「体制」に移行するプロセス。
日本史ではそういった社会の中での「対流」が、活発になる時期がある。
戦国時代や幕末の時期などがそれに相当する。
その時代の生産力が乏しい時代には、国全体として
創成させうる「文化」は、都にしか存在しないとされたけれど、
それが行き詰まってくると、「下剋上」の風潮が高まって、
独自の地方文化の発展が自然になってくる。
そしてその時間的積層が、中央とはまったく違ったかたちでの
地方文化を創造してくる。
沖縄に来ると、いつもそうした文化性を強く感じさせられる。
写真は、沖縄の地方染色文化である紅型の布。
紅型(びんがた)とは、沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つ。
14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮すると、
その起源は13世紀頃と推定されている。
「紅」は色全般を指し、「型」は様々な模様を指していると言われる。
こういう美には、上下関係はないのではないか。
単純に美しいものは美しいし、いいものはいい。
たとえ王様が「これは美しくはない」と意識を強制しても、
やがて「王様は(知的に)裸だ」と、たくましく宣言する鄙の立場が出てくる。
結局は、ひとびとの意識が自然に発露するようになる。
だんだんと、知的貧困をさらけ出す中央が下剋上にさらされる。
いま、1億以上の人口が暮らしている社会が実現した日本。
平安時代には総人口が800万人程度で、
しかも末期には、奥州藤原氏という地方王権まで成立していた。
地方での文化発展と言うことについて、
中央でその権力の側に立っている人たちは、それを無視せず
大いにそれに注目して、自己革新を心がけなければならない。
そんな思いをここ数日、強くしています。
Posted on 6月 12th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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