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【新建築住宅特集・「環境住宅」新時代を読む】

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「新建築住宅特集」さんが、「環境住宅」新時代というテーマで特集を組まれた。
わたしどものような「地域住宅雑誌」とは、やや距離感のあるメディア。
建築界では一種のエスタブリッシュメントであり
またこれまでの事跡に対して、リスペクトの気持ちは持っています。
多少は興味を持ったものの、時間と仕事に取り紛れていましたが、
たまたま仙台の当社事務所に、どういう経緯でか知らないけれど
この雑誌が置いてあったので、ざっと目を通してみた次第。
「ざっと」というのは、なんと言っても文字フォントの大きさが小さくて(笑)
老眼の進んでいるわたしには、ツラいレイアウトになっているせい。
ということなので、いまのところ全部の記事には当たれておりません。
それは主に時間的な理由と、前述の事情によります。
そういった中途であり、さらに本来エチケットにも触れるかもという
他誌さんでありますが、少しく、感じたことを記させていただきます。

まずは、サブタイトルに「いかに自然と結びつけるか」と打たれ、
そこからテーマ意識が解題されています。要約すると、
「本当に求められているのは、人と自然の新たな関係を問うこと」
ということで、巻頭に「自然と繋がるDelightfulな建築へ」という
論説・記事制作:川島範久氏による「特集記事」が展開されています。
その前フリに、(編)とされる編集部の意図説明があります。以下要旨。
「建築は環境にいかに応答できるのか。本特集の巻頭にあたり、
その根本を探るべく、環境技術と環境政策の系譜を年表として作成。(中略)
快適(comfort)のみを求めるのではなく、歓び(delight)をつくりだすことに
ヒントがあるのではないか」というのが編集意図と理解出来ました。
で、川島さんの記事が展開していきます。
このなかで「環境工学者と建築家」という対立関係が主軸で記述されている。
わたしが強く違和感を感じたのは以下の部分。

「外部を完全遮断し、間断ないエネルギー補給によってつくられる一定の
人工装置も環境工学的には「快適」ということにはなる」
「一方、自然と一体化し、自然のリズムが実感できる環境は、
その変化によって時折、環境工学的に不快になり得る。しかし、
その変化を楽しめる度量をもてた時、それは歓び(Delight)にも
なり得るのである。それは他者と共に暮らす歓び(と苦労)と等しいと思う。
そして、その歓びと苦労を通して自身の価値感を見直し、自身も変化する。
その人間の変化こそが現在求められているのである。」

この部分を読んで、論旨にやや飛躍を感じさせられた次第。
戦国時代の武田家が織田に滅ぼされた戦争において
武田家が保護していた禅宗の寺が焼き討ちに遭ったとき
その寺の和尚・快川さんが「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」と
言い放って自死を選んだという故事と、イメージが重なってしまった。
この故事は、確かに禅の一境地をあらわしてはいるだろうけれど、
それを普遍的と言い放つことは、どう考えても常識ではない。
建て主に「その変化を楽しめる度量を」持ってもらって成立させるのが、
本当に「環境的」建築の仕事なのだろうか?
北海道に住んでいると、年に数度は自然の摂理・猛威によって
いのちの危険まで感じさせられることがある。
「なんとか度量を持ちたいけれど、不可能」なときは多い。
北海道は日本では「特殊」な気候条件地域ではあるかも知れないけれど、
人々はごく常識的な日常を安定的に過ごす環境を求めて、
住宅建築にそのような発展を促し続けてきた。
そのプロセスでは「日本建築」に学んでもそこには答はなかった。
しかたなく地球的普遍性のなかで同じような「環境」を生き抜く
建築技術を蓄積していた北欧や北米に基本、スタンダードを学んできた。
インターナショナルの考え方が導入され、断熱と気密概念が普遍化した。
伝統的日本木造建築技術を改良する工法も北海道では開発してきた。
この「特集」記事において、こうした建築「環境」技術について
ほとんどまったく触れられていないのは、どういう意図があるのだろうか?
さらにいえば、「年表」はひたすら設備技術と政策変化だけを
「環境」建築にとって核心的要素と考えて構成されているけれど、
その考えはきわめて「特殊」であると、思わざるを得なかった次第です。

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