以前に「足利学校」を見学したことがあります。
あれは、八幡太郎と呼ばれて武家貴族のひとつの典型を示した源義家が
栃木県に立ち寄ったときに子孫を残し、
その末裔が足利氏を名乗ったことから始まる家系の本拠地遺講。
本拠の敷地は、ぐるっと壕が巡らされていました。
このように防御機能を果たす環濠というのが
その地域の権力者の伝統的な居館の形式なのですね。
そんな思いを持って、民俗博物館で出会ったのが写真のジオラマ。
表題の通り、400-500年代の関東有力者邸宅ということなんですね。
まさに足利学校と瓜二つ。
ということは、この時代、すでにこの程度の「防御を必要とする」
軍事的強制力を持った有力者が、関東地域に成立していたことを表している。
ヤマト朝廷の大化の改新よりずっと以前の時代になるわけですが、
ここまでの明確な権力機構を感じさせる居館があったのですね。
考証については、民俗博物館に展示されているということから、
相当に検討され、実際に存在した居館を模してもいるでしょうから
疑問を持つ必要はないだろうと思います。
具体的にこういう模型展示を見ていると実にいろいろな想像が膨らむ。
っていうか、いろいろな具体的事実を再構成していって
想像復元していくと、こういう具体的な造形にたどりつく、ということか。
環濠がここまで大きいと言うことは、
「万が一攻められる場合」というのが日常的準備として存在していることを表している。
そういう緊張関係が日常化していたのでしょう。
まさに、倭国大乱と魏志に書かれている状況が
切迫感を持って迫ってくるようです。
塀も、整然と方形に幾何学形で構築されている。
その後の時代の「官衙」の形式に似ているようでもある。
このような幾何的な形というのは、
民衆にとって、「尊貴なるもの」を具体的にイメージさせる効果があったのだろう。
こういう居館は、一定の地域にとってまとまりの中心装置でもあっただろうから、
数多くの民衆が、ここに通ったり、
ここで働かされたりしたに違いない。
農耕のためのスキやクワといった鉄製品も、こういう居館で管理され、
あさ、1日の農作業の道具をここで渡されて
それぞれの農地に向かったりしたことが想像される。
そして農作業が終わったら、農機具を返却して、
竪穴住居の一般民衆住居に帰っていく、というような暮らしぶりだっただろう。
そういう意味で、権力の明確な表現であるとともに、
民衆にとっては、生活の場でもあっただろうと思います。
いったん戦争が勃発すれば、
こういう共同体が、一体となって戦ったのも間違いがない。
管理された農業生産と、戦争行為が同時に進行していった歴史時間。
弥生的生産様式・社会というのは、
具体的には、こんな社会であったのでしょう。
「一所懸命」という言葉がもつ強い意味合いをも感じさせてくれます。
北のくらしデザインセンター
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Posted on 3月 28th, 2009 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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