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門・塀がもたらすライフデザイン効果

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写真は先日訪れた北海道松前の血脈桜で有名な光善寺の門であります。
松前という街は、津軽海峡に向かって南面している街。
で、城や寺院群は北の山側にへばりつくように立地しているので
境内から見返すと、このように門が海の風景を切り取って
ピクチャーウィンドウ効果をもたらせてくれる。

北海道の住宅建築が、日本の住宅建築から学ばなかった点に
「門」という装置のことがあると思い続けています。
まぁ、一部の高級住宅ではもちろんあるのですが、
基本的に門や塀という装置は
身分制社会が前提となって存在し得たものではないのか
そんな固定観念を持っています。
平民の住居との違いを際だたせるために
社会との「結界」を明示的に示す必要性から
「おまえらとは違うのだからな」と言い放っているかのようなのです。
そのような社会的な主張性があまり意味を持たなくなって以降、
社会が形成されてきた北海道では
そのような意味合いがきわめて薄くしか存在しなかった。
わたし自身の交友関係でも、「塀のある家」の友人はひとりしかいない。
で、そのかれの家系の社会的な存在は、明治以降の社会の中での
経済的成功者ということでしかない。
戦前までの社会では、そういう階層も明治以前までの
住宅様式の規範性を引きずっている部分があったのでしょう。
逆の言い方をすれば、戦後以降、建てられた民家は
それまでの住宅の様式区分で言えば、おおむね「町家」様式だった
というようにも言えるのかも知れませんね。
その上、北海道では雪がたくさん積もるので
除雪のことも考えると、どんどん門塀は意義を喪失した。
平民ばかりになった社会の中で、上流階級的な主張性のためだけに
除雪の手間が増えるような外部装置は意味がなくなったのでしょう。

でも、たまにこうした視覚効果をもたらす門を見ると
なにか、失われた民族的デザイン感覚を思い起こさせてくれる。
屋外の空気にさらされているのに
それでもなお、「内と外」という概念を視覚的に見せてくる、
この結界の感覚というのは、悪くない。
日本的なるあるものが、そこにあるように思うのはわたしだけでしょうか?

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