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観光北海道を次代につないでいくには

1850

先日ふらりと小樽に行ってきたけれど
運河沿いの地域には、中国語があふれかえっていました。
北海道にいる人間からすると
どうしてこんなにわざわざ中国から観光に来ていただけるのか、
よくわからない部分もあるのですが、
とにかくも、小樽は北海道観光の定番コースとして
中国、アジア圏のみなさんには親しまれている。
でも小樽って、
考えてみると、わたしたちの年代が若い頃には
運河を埋め立てようという流れがあって、
それを、いやむしろ保存しようという運動と拮抗していた時期があった。以下、
http://www.pn-planet.co.jp/topics/tanken/1otaru/otaru.htm
より引用です。

戦後の小樽市は、樺太や満州との航路の廃止、日本海海運から
主要港湾が苫小牧港に移転したこと、相次ぐ鰊の不漁等を要因として、
経済基盤は斜陽の一途をたどる。活況を呈していた倉庫は扉を閉ざし、
運河周辺はゴーストタウン化していたと言う。
 小樽港が衰退する一方で、苫小牧港の整備が急速に進む。
地理的にも不利な条件となった小樽市では、地域経済の復権をめざし
運河を埋め立てて道路整備を推進することとした。
昭和41(1966)年に北海道都市計画審議会で
都市計画決定された臨港幹線である。
この臨港幹線整備を巡って、「運河こそ地域のシンボル、運河を守ることは
地域を愛すればこその運動の活力源」との考えのもとに
『小樽運河を守る会』を発足、20年にもわたる地道な保存運動を通じて
市民にアピールしつづけたことをきっかけとして、
当初の計画が一部変更され、運河と臨港幹線とが共存、
現在の観光地・小樽の舞台を形づくることとなった。
 観光地となった小樽運河は、ひとつの小規模な市民団体の、
20年にわたる運河保存がそのスタートである。
先人の資産である運河こそが地域のシンボルである、との考えのもと、
活動の中心的組織体である「小樽運河を考える会」をまず発足する。
広報活動、陳情、署名運動、展覧会、そしてイベント開催、
いずれも一過性の運動とならないように、組織内の求心力を高めるとともに、
組織活力を維持するために注力しつづけている。
また、地域の内外からのアイデアや智恵を得て、より広く活動の趣旨、
求めるべき「夢」をアピールしつづけ、支持層の幅を広げることに努力している。
<引用ここまで>

1849

友人たちの中で、小樽の運河街の倉庫群を舞台にした
ミニ映画を撮るヤツもいたりしていたけれど、
そういったエキゾチシズムをコアにして、膨らませてきた運動だと思います。
そういう意味では、地域の生き残りのひとつの作戦だった。
それが今日まで生き延び、
年間観光客数が500万人を超えるという。
国際的なアクセスが千歳空港しかなく、しかもJRも在来線しかないなかで、
ここまでの数が押し寄せるのは
ものすごいことだと思う。
近接する大都市機能を持った札幌の年刊観光客数が1300万人あまりだから
観光的にはツインシティとして機能しているに違いない。
観光庁:宿泊旅行統計調査によると2012年10~12月期間で
海外からの観光宿泊客数は
東北 90,250
関東 2,868,510
北陸信越 173,280
中部 425,620
近畿 1,701,690
中国 136,790
四国 38,680
九州 552,900
沖縄 155,430
に対して
北海道 519,250というようなことだそうです。
経済を考えていくのに、やはり観光は大きな数字。
どのようにこれを維持発展させていくべきなのか
地域の人間として次世代へバトンを渡すのに、重要だなと思わされた次第です。

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