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網野善彦:海と列島の中世を読みながら

1847

先日の沖縄行きではもうひとつ帰りの楽しみがありました。
いま、わたしは表題の歴史書をKindleで読み続けているのですが
そのなかで、ことし訪れた「鹿島神宮」周辺の
霞ヶ浦が主舞台の記述があり、ぜひこの目で見てみたいという欲求がありました。
成田空港経由便搭乗なので、天気が良ければ見られるのでは、と
願望が満たされる可能性があったのです。
で、離陸後、運良くごらんのようなスケール感を実感できた次第。
陸上で見続けていても、なかなか位置感覚は捕まえきれないし
地図では具体的な把握力に欠けるのですね。
昔、西武の堤義明さんは土地開発、大規模開発をするときには
その地域でヘリコプターをチャーターして
具体的な立地環境イメージを膨らませるのだという記事に接したことがあります。
そんな機会には滅多に恵まれることのない凡百としては
羨ましくも、そうあるべしとも思っていましたが、
やっぱり長生きはするもので、
そういった機会、念ずれば、というか、忘れないでいると
こんな風な機会で、実現することがあるものなのですね。

日本の歴史を考えるときに
いわゆる百姓という一般民衆の職業というか、生き様・生業を
ひたすら「イコール農民」と見る視点に立ちがちですが、
その実態はまったくそうではなく、むしろ
広く漢字世界でそうであるように、字句そのまま
百姓とはあらゆる生業に携わる民衆なのだ、という見方を網野さんは
繰り返し、語っているわけで、
そのなかで「海民」の生き様のことを深く探求されています。
その先には、百姓たちの活発な生業活動の発展それ自体が
歴史を根底的に動かしてきた実体に違いないという
唯物史観的な網野さんの立場があると思うのですが、
やはり歴史の見方では、まったくその通りだと思っている次第。
ただし網野さんは非常に柔軟で、ドグマチックな論ではありません。
むしろ「日本人というのは非常に保守的だ」というような言い方もされています。
そういう歴史発掘の中で、ちょうど本に克明に書かれていた
霞ヶ浦の重要性、そこでの「海民」の活動の活発さがあったのです。
歴史に対して、虫の目で見るばかりでなく、鳥の目もまた
不可欠なのだろうと思って、こういった機会を求めていた次第。
このようなスケール感で現実の風景を目の当たりにすると
霞ヶ浦という水郷が、関東の歴史の中でどのような存在であったか
ある明瞭なイメージとして浮かび上がってきます。
網野さんはもう亡くなられているのですが、
まことにわたしの歴史の先生として私淑させていただいて
深く書を読み続けさせていただいております。
知ると言うことは、本当に楽しいものだと思いますね。感謝。

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