きのう朝日新聞による文春の広告掲載拒否のことを書きましたが、
引き続いて、週刊新潮についても、広告掲載拒否があったそうです。
週刊誌という、朝日新聞社からすれば
取るに足らないとでも思っているメディアでしょうが
今回の一件について言えば、どう考えても週刊誌の書いたもの勝ちでしょう。
広告掲載拒否という手法を朝日は使ったわけですが、
これも稚拙な対応と言わなければならない。
誰がどう考えても、報道の自由への干渉を言われても仕方ない。
いまの朝日の経営陣、レベルが下がっている。
わたしは、朝日新聞のことを嫌いではありません。
戦後日本社会の中で大きな役割を果たしてきた存在だったと思っています。
細川政権・羽田政権末期には、わたしは
小沢一郎による強引な権力ゲームについて批判的な意見を書いて
朝日新聞に投稿し、掲載されたこともあります。
ふつうの市井の市民の声がきちんと掲載されるシステムがあり、
それが表現される大きな場所が担保されているということに
ある清々しさを感じた経験を持っています。
それは朝日新聞というメディアが、戦後民主主義にとって
大きな役割を果たしてきたという具体的な体験でした。
数年前に、朝日新聞に自社としての出版物の1ページ広告を掲載したときには
出版に生きるものとしての内心の充足感も持ったりしていました。
そういった朝日新聞へのリスペクトの気持ちは持っている人間です。
そういう人間だからこそ、朝日新聞には報道の自由について
それを大きく担保する姿勢を貫いて欲しい。
それがたとえ、自社にとって不都合な事態であっても、
朝日新聞には、正々堂々とした挙措を期待したいのです。
先日の従軍慰安婦についての誤報の開示は、
苦しかっただろうけれど、真実を正面から受け止めようという
そういった姿勢を感じ、批判しつつも、そこからの立ち直りを期待していました。
しかし、いまの朝日の社会への対応はダメです。
文春も新潮も、たしかに朝日の報道傾向とは違うメディアですが、
日本の論壇、ジャーナリズム社会では重い役割を果たしてきたメディアです。
文春に至っては、田中角栄金脈研究という戦後史に残る
メディアと権力との角逐の主人公になった歴戦の雄。
それに対して、ただただ暴力的な「広告掲載拒否」では
格好の攻撃手段を与えるだけです。
こういうケンカでは、文春や新潮の方がはるかに上手でしょう。
まったくの小児病的な対応であって、
大メディアとしての矜持のない対応だと思います。
まず朝日は、せっかくの「記事取り消し」決断をムダにせず、
そこから巻き起こった事態について、正々堂々と
海外記者クラブにでも編集長や社長が乗り込んで
朝日新聞の立場、考え方を世界にアピールすべきであって
臭いものにふたをする、批判を暴力的に封じ込めるというのは
まったくの下の下の策です。
まさか、朝日新聞のメディアとしての自殺は見たくありません。
Posted on 8月 29th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 状況・政治への発言
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