きのうは分権的であった江戸時代の経済構造の基盤に
日本全国の「回船」ネットワークという物流システムがあったと書きました。
地方分権的な政治システムである幕藩体制においては、
権力主体である各藩は必死に生き残り作戦を考えていた。
西南地域の各藩、とくに薩摩藩などは琉球を属国化していて
アジア世界〜その先との「密貿易」という手段もあっただろうけれど、
そうした手段を持たない藩は、コメ経済だけではまったく立ち行かなくなっていって
勃興発展する商品経済を通しての藩財政の健全化を図った。
江戸期には幕府支配層は、何万石というコメ生産量への収奪経済だけに
ひたすらたかった。
コメ生産だけにたかり続けた武士権力機構に対して
多くの経済主体たる商人、庄屋層たちは、
それからの脱却を考え、より有利な商品生産を志向していて、
武家権力者と民衆との乖離が生じていた。
こういう社会体制の中で、経済をうまく回転させるのに、
面倒だから賄賂というわかりやすいシステム短縮手段が横行した。
一方で各藩では、さまざまな商品経済対応型の
地域での「名産品」づくりに励んでいった。
人口集積と権力機構の集中で
江戸では呉服などのファッション産業が大きく進展していった。
上の写真は、呉服をメインとして繁盛した「越後屋」の店先風景。
一方、上の写真は明治になってからの北海道積丹半島部の余市町での
ニシン漁の様子です。
江戸期には、ファッション産業としての呉服産業が大盛況を呈して、
その原材料としての綿花生産が活況を呈したといわれますが、
その綿花栽培には金肥といわれるニシンを原料にした肥料が不可欠だった。
それを大量に収奪したのが、北海道西部海岸地域。
写真の下の方は、海辺に大量に山積みされたニシンなのですね。
高田屋嘉平など、この交易で財を成した連中は多い。
日本社会が始めて経験するような「大衆的消費」が現出して
こういった社会構造が出来上がっていったのだと思うのです。
Posted on 3月 25th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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