きのうも書いた「日本の歴史人口」という概念は
日本の人口の変遷に詳しい上智大学教授の歴史人口学者、
鬼頭宏氏の著作にあった図表をもとにしています。
それによると、関ヶ原の年の人口が1,400万人、それから約120年後で
1720年には3,112万人になり、
幕末明治直前期・1846年で、3,229万人となっていて、
江戸時代は、はじめの100年で人口が倍増して
その後、平衡状態になっていったことがわかります。
この間、ヨーロッパ世界では産業革命が起こり、
それにともなって、経済拡張とそれを合理化する「近代国家」が生成し
そのような「国家」が、まだ「国家」をもっていない世界に対して
植民地拡大を仕掛けていった時期になる。
近代国家ならざる「国家」であった日本は、
政治運営主体である江戸幕府自身に明確な「経済政策」概念がなかった。
この時期にヨーロッパ世界と交流していれば、
たぶんまったく違った世界史が書かれていたに違いないだろうと思います。
そういった政治支配体制の中でも
いやむしろそうであるからこそ、
日本は、活発な国内経済の交流が行われていたのだと思う。
鎖国と幕藩体制のなかで、
国内各地域は自立的な経済拡大を計り続けていた。
関ヶ原という国内軍事戦争の勝利者側は、
領土分割においては圧倒的に有利な線引きを行ったけれど、
その後の「支配領域内経済振興」政策運営の必死さにおいては
薩長などの敗北者側の活発さの足許にも及ばなかった。
領土を1/3以下にさせられた長州は必死に農地の拡大を図ったし、
産業振興にも大いに力を注いだ。
薩摩は関ヶ原の敗北後、藩としての膨張方向を
琉球に求め、しかもその方針を幕府にも認めさせて
江戸期を通じて密貿易を活発に行ってきたに違いない。
江戸時代を終わらせた主要勢力がすべて西南地域の海に開かれた
地域の勢力であったのは、経済的な必然だったのだと思う。
写真は江戸期の国内輸送ネットワークの状況を表している。
日本列島は、伝統的運輸手段は水運なのだと思います。
というか、近現代になってクルマと舗装道路というネットワークシステムが
取って代わっただけで、
歴史を通じて「大量輸送」というのは水運が基本を担ってきた。
この水運に乗せて、物資が活発に交流し、
実体経済が回ってきたことは、この列島にひとが住み始めた当座から
間違いがないことだと思います。
人口の急拡大に伴って、こうした水運経済も活況を呈する。
江戸の大火で、紀州の紀伊国屋文左衛門が一攫千金を実現できたのは
こうした国内輸送体制があったればこそなのですね。
Posted on 3月 24th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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