江戸の人口は、Wikipediaよりおおむね以下のようであったと推定される。
ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、
18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。
なお国勢調査の始まった1801年のヨーロッパの諸都市の人口は
ロンドン 86万4845人(市街化地区内)
パリ 54万6856人(城壁内)であり、
19世紀中頃にロンドンが急速に発達するまで、江戸の人口は北京や広州と同規模か
あるいは世界一であったと推定されている。
また、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった
町人人口のみであり、人口100万人とは、
幕府による調査が行われていない武家や神官・僧侶などの寺社方、
被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。
武士の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者など、
流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から150万人程度までと
かなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も
68万人から200万人まで様々な推定値が出されている。
一方で「日本歴史人口」という調査では全国で
関ヶ原の時代で総人口は約1400万人で、約100年後には3,000万人を超えている。
ものすごい人口増加ぶりだったに違いないと思われます。
戦国末期から江戸初期の時代は、
たぶん、明治開国時期、戦後と並んで、日本の人口の急拡大があったのだと思う。
これだけの人口拡大でしかも新開地が急発展した。
それまでの京大阪の大店が、江戸に出店して市場の獲得に向かった。
「下らない」という言葉は、
お酒の良し悪しを表現することから始まった言葉だそうですが
それは、京から「下ってきた」酒と、「下らない」酒の品質を表していたといわれる。
こういう急拡大の時期には
文化も大発展を見せるのは自明のことでしょうね。
しかし、もともとの上流階級や資産家が少ない新開地では
大衆自身が町人文化の主体者になった。
それまでの貴族が中心だった文化護持システムではない、
民衆型の文化が起こっていったのでしょう。
やはり生きるなら、こういう時代の方が
るつぼのように燃えさかっていて、楽しいのでしょうね。
Posted on 3月 23rd, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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