写真は奈良県橿原市の「橿原考古学研究所附属博物館」の玄関に展示されている一木(いちぼく)製の井戸。展示は3枚目の写真のように横たえられているのですが、わたしの個人的趣味で、この井戸が働き続けていたその「状態」を再現した […]
Posted on 5月 11th, 2024 by 三木 奎吾
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写真は奈良県橿原市の「橿原考古学研究所附属博物館」の玄関に展示されている一木(いちぼく)製の井戸。展示は3枚目の写真のように横たえられているのですが、わたしの個人的趣味で、この井戸が働き続けていたその「状態」を再現した […]
Posted on 5月 11th, 2024 by 三木 奎吾
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先日のゴールデンウィーク、1日だけ遠出できる日があって十勝を往復した。 札幌からだと往復では350-360kmくらいの距離になるだろうか。夫婦交代でハンドルを握っての行脚。ちょっと体調を崩してはいたけれど、その回復の […]
Posted on 5月 10th, 2024 by 三木 奎吾
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道南十二館という北海道島の歴史の中で、どうも縁遠いなぁと感じ続けていたテーマについてたまたま探訪の機会が得られたことで、いろいろな側面を見て来られた。 このコシャマインの戦い以降、有名なシャクシャインの乱などへと、北 […]
Posted on 5月 9th, 2024 by 三木 奎吾
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さてアイヌの人びとが明確な戦闘目標対象として「道南十二館」の志苔館攻撃に立ち上がったのが、コシャマインの戦い。松前藩の史書「新羅之記録」の記述では、総数1万にも上る攻撃軍が300の守備兵の志苔館を襲ったと書かれる。動員 […]
Posted on 5月 8th, 2024 by 三木 奎吾
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北海道島の歴史でアイヌ民族と道南十二館という鎌倉〜江戸期の日本社会由来の「武家勢力」の確執、騒乱は繰り返し勃発する。はるかな後世人である北海道人にとっては、避けては通れない歴史の局面だけれど、明治以降の近現代が深く直接 […]
Posted on 5月 7th, 2024 by 三木 奎吾
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わたしはこれまで北海道の歴史については、基本的に明治以降の北海道開拓と日本社会からの殖民、そのための最大のテーマであった「日本住宅技術の寒冷対応」ということが基本認識でいた。 たぶんこのことは住宅に関連する人間であれ […]
Posted on 5月 6th, 2024 by 三木 奎吾
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昨日、ようやく環境にやや落ち着きが出たので、懸案になっていた「道南十二館・志苔館」の小林氏についての論考を再開した。予定があってカミさんと十勝へ往復することになっていたので、大急ぎになってしまって文章の「校正」までとて […]
Posted on 5月 5th, 2024 by 三木 奎吾
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さてふたたび函館市の東側海岸線にある「志苔館」探訪記の続篇。 この志苔館のさらに東側約10kmほどに明治になって造営された「石崎地主海神社」がある。この神社の「末社」というようなカタチで「御霊」神社が祀られていて、そ […]
Posted on 5月 4th, 2024 by 三木 奎吾
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連休の谷間でしたが、ふだんとちょっと違う環境だったので、ブログ執筆がさっぱりはかどらない。人間って環境によってメンタルは大きく左右されるものだと言うことを実感。 そういうことなので、道南十二館の志苔館を中心とした探訪 […]
Posted on 5月 3rd, 2024 by 三木 奎吾
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先日、超早咲きで例年と比べて2週間近く早い満開を迎えた静内の二十間道路サクラ並木を見に行っていましたが、翌日にもその日の「忘れ物」事件があって、日高には2日間どっぷりと、その風景に魅了されていました。 ということで写 […]
Posted on 5月 2nd, 2024 by 三木 奎吾
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