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集合美の木造デザイン

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写真は、この夏に取材してきた飛騨高山の古い街並みから。
やはりことし見てきたなかでも出色のデザインレベルの高さだと実感しています。
高山というのは、天領である飛騨支配の中心都市であり、
奈良や京都の街並みをデザインしてきた
「飛騨の匠」たちが、その故郷に都で吸収してきたデザインセンスを
いかんなく残し続けてきた街並みなのだと思います。
ひとつひとつの木造建築は、それぞれに素晴らしいのだけれど、
それらが折り重なって見えてくる景観の美しさは、
まさに圧倒されざるをえない。
こうした「集合美」は、特段の「街並み協定」があったわけでもなく、
いわば、職人的な良心の部分で、相伝的に伝統として残ってきたのに相違ない。
そのように考えると、それもまた素晴らしい社会制度装置だと思える。
独立的な建築というのは、宮殿であるとか城郭であるとか
そういったものであり、庶民が暮らすとか、住まうというのは、
所詮は、共助的に相互に依存しながら生きていくということであり、
その場としての住居、建築には、集合美というような要素が不可欠だと思う。

現代に建てられている住宅って、
そのような集合美というようなことは、ほとんど考えられていない、
というよりも、
「俺の家は、ほかとは違うんだ」というような「個性表現」にだけ意識が向かっている。
世界にひとつだけの、わが家だけの幸せを、みんなが目指すような家。
できれば塀があった方がいいとみんなが思っているような家、街づくり。
このような社会規範は、たぶん欧米的な「郊外型住宅」が
そのモデルになっていると思われるのですが、
広く日本人が個人主義を受け入れてきた結果としての選択なのか。
しかしどうも、この先のことを考えていくと、
そのような家づくりの方向性を、本当に日本人は望んでいるのか、
わからないのではないかと思っています。
そんな疑問に思う気持ちが、写真のような街並みとしての美しさ、
こうした地縁的な社会での暮らしへの憧憬を
どうも心理的に支持しているものなのかも知れません。
こうした写真のような街並みからは、
向こう三軒両隣的な「地域共同体」の匂いが色濃く感じられ、
常に個人は,社会のなかの一成員であるという実感が感じられるのではないかと。
農家住宅でも、集村の街並みの方が、
より親近感を感じる。
どうも、だんだんそんなふうに思うようになって来ております。

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