現生人類が地球上に展開した足取りを表現した図を見ている。
人類は現生人類だけではなく、ほかにも人類はいたけれど、
イブの子孫たちは20万年前にアフリカを離れて、世界中に食料を求めて
旅立っていった。
その図によれば、日本にはまだ到達していないことになっている(笑)。
そのなかで中央アジアから大きく枝分かれして、
モンゴル高原を経てアラスカを超えてアメリカに向かった人たちと、
同じく中国に向かった人たちが、どうも日本列島には来たように思われる。
そのほかにも、南方島嶼伝いに列島にたどり着いた人々も多かったかも知れない。
朝鮮半島は、やはりモンゴル高原からの流れと、
中国からの流れが交錯しているように思う。
日本の列島に来た人々のうち、後に縄文文化人になった人々は、
やはり基本的にはモンゴル高原からの北方狩猟民、
マンモスハンターの流れだと思う。
モンゴル高原や中国に到達したのが30000年前だと言うから、
そのへんから、この島嶼列島に人々は流入しはじめたに相違ない。
そして、気候の温暖化が13000年前ころから始まって、
次第に食料が、縄文的システムに変わっていった。
そこで、森林からのドングリなどの採集と漁撈とを基本食料調達手段とする
縄文社会がこの列島に根付き始めたのではないか。
そこらへんから、日本という社会が創成していったように感じる。
ただ、こうした「民族移動」は常態的なものであって、
その後も弥生的な生産様式社会が、朝鮮半島地域との強い関係性の元で
この列島にも一体的な社会として現出していたようです。
古代における天智や天武期の朝鮮半島への出兵・白村江での戦いなど、
朝鮮半島と、この列島との一体性が表現されていると思う。
そしてその結果、中国の強大な古代国家・唐との国際関係に直面して
独自的な律令国家の方向に大きく舵を切ってきたのではないか。
半島と列島は自然的には、一体的な関係にあったのではないだろうか。
人と集団の交流はごく自然に海峡を跨ぎ、
日常的な強い関係性を保ってきたに相違ない。
そうした列島西部地域と、伝統的にモンゴル高原から北方経由で
この列島に根付いてきた縄文システム社会を基本にした列島東部・北部の社会に
大きくは二分されてきていたのが、日本の祖形だと推測します。
わたしたちの年代が受けた歴史教育とは隔絶したような
こんな明瞭な歴史像が最新知見でもたらされている。
グローバルな認識と、個別社会の成立要因の両方から
歴史的な把握というのは、されていく必要があると思われてなりません。
Posted on 3月 31st, 2013 by replanmin
Filed under: 歴史探訪