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洞窟と木造の混合・大谷観音

きのうブログを書いていて、
木造の架構の始まりというか、洞窟住居との対比を考えたのですが
思い起こしていたのが、宇都宮市郊外の大谷観音。
蝦夷の英雄・アテルイを奉ったに違いない「達谷の窟」と同様に
横穴的な洞窟に木造架構が覆い被さっている建築は同様。
創建伝承では、弘法大師空海が出てきていますので、
800年代ではないかと思われます。
そういった時代的なものとしては、同年代だと思います。
この地方の代表的な産物である「大谷石」は
帝国ホテルの建設に使われた素材であり、
フランク・ロイド・ライトが好んで使用した素材として知られるのですが、
石の産出自体は、こういった年代までさかのぼるのですね。
思うのですが、当時の宗教指導者たちというのは、
最新文化である中国の文化を全身で吸収して帰朝する最先端文化導入の体現者。
さまざまの「文化」や「技術」の指導者という側面が大きかったのではないか。
大谷石という素材を切り出して造形や建築に使うという
そういった建築文化を含めて、空海さんたちが各地で「指導」したのではないか。
東北各地で慈覚大師・円仁さんの開基になるという寺院が多いけれど、
それは、当時の国家最高水準の「文化指導者」が
各地の国司や郡司といった地域有力者の勧請で、
「地域興し」的な活動を行ったことの痕跡として残されているのではないか。
空海さんは各地に88箇所を勧進して歩いているし、
円仁さんは関東から東北各地にその足跡伝承が残っている。
海を渡って北海道の有珠・善光寺にまで足跡が伝えられている。


<上の写真は、達谷の窟>

そんな想像力が沸き上がってくるのですが、
そうしたことから、石を使った造形のシンボルとして
石造の観音像などが今日にまで残される結果になっていくのではないか。
その全体としての文化の伝播の象徴として、寺院建築が遺されていく結果になる。
どうもそんな気がしてなりません。
で、ここでは「達谷の窟」とは違って、
そういう石の造形技術をこの地に残すというのが
この寺院建築の目的だったと思われる。
写真撮影禁止のご本尊は千手観音なのですが、
細かい石への造形技術の見本のように感じられる次第です。
達谷の窟が、けっこう呪術的な感じだったのに比較すると
やや、ユーモラスな造形感覚も感じられた観音さまでした。

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