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都市の緑面積の拡大を

仙台は戦争で空襲を受け、
市の中心部が焼け野原になってしまった。
東京の代替都市としての計画があったことで、
アメリカの空襲計画の重点的なターゲットにされた。
そこから都市計画をやり直して、中心街に大きな通りを確保し、
その通りにケヤキの並木を植え続けてきた。
司馬遼太郎さんが仙台について書いた文章の中に、
仙台市の地域計画に与る行政担当者が、
伊達家以来の「残すべき伝統・地域性」について悩んでいるという記述があったけれど、
いま、この夏の暑い時期に仙台を訪れると、
「杜の街」という素朴なコンセプトが実現していて、
都市空間として、なかなか秀逸ではないかと思える。
そんな街の雰囲気がほんのちょっとした小空間にも及んでいて
写真のようなちょっと古めのビルなんですが、
街路樹を工夫して2階のベランダまで一体化したような緑が覆っている。

そこには、こんな小径が実現していて
緑の高さも、人間が行き交うギリギリに設定されているので
光合成が生み出す生物的呼吸感が、歩くひとにも迫ってくる感じがする。
ビルの1階は店舗群で、ときおり打ち水も心がけているようで、
そういったここちよさを売り物と心得ているかのようです。

ひるがえって札幌の街ですが・・・。
残念ですが、ふさわしい写真はありません(笑)。
札幌は街を離れれば、ゆたかな緑の環境が自然に近い感じであるのですが、
そういうことにアグラをかいて、都市緑化については
どうもあんまり熱心ではなかったように思う。
確かに冬の除雪のことを考えれば、並木は「邪魔者」という考えも
わからなくはないけれど、
その対応は、文化的とはとても言えないのではないか。
札幌市の中心街では、「並木道」というような奥ゆかしさの感じられる道が存在しない。
北大構内の「ポプラ並木」も、先年の風台風で無残な姿になってしまった。
大通公園もほかの日本の大都市の公園の杜の景観とは比ぶべくもない寂しさ。
雪祭りイベント会場としての使いやすさ優先で、
この夏の時期のカンカン照りに、ひたすらさらされる広場空間になっている。
こういう潤いの無さでは、
独自な精神的文化は育つことがないのではないかと
そんなさみしい思いをずっと感じ続けています。

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