信長の家、安土城にハマっておりましたが、
きょうはまた遡って、源平合戦ころ由来の能登の旧家にタイムスリップ。
平家の配流人です。軍事の清盛とは肌合いの違う文官系の平時忠の家系。
平時忠は壇ノ浦合戦で捕虜となって3種の神器のひとつを守っていたことで
死罪を免れて能登に配流されたのだという。
その後、息子の「時国」が家を継ぎ、鎌倉幕府に配慮して
平氏の名を変えて「時国」というセカンドネームを姓にしたということ。
一族は一時山に隠れ住んでいたけれど頼朝直系の源氏嫡流政権が途絶して
ようやく追究の手が弱まり、周辺の農地を買い求めることができたのだという。
それ以来25代にわたって家が存続し続けてきている。約1000年。
ロッキード事件で田中角栄を裁いた判事は、時国家の末代の方とも。
というようなことですが、敬愛する歴史家・網野善彦さんが
この「時国家」に残された古文書類を整理された内容紹介を読んで、
北陸出張の機会に足を伸ばして写真撮影してきていた。
日本の民俗、家系というものの実質が時間を越えて迫ってくる。
なんといっても源平期からすれば1000年の時間規模。
そういう「家」があり続けていることに率直に感動させられる。
とくに北海道のように150年しか時間積層がない地域からすれば神代の感覚。
残念ですがこの上時国家、公開はこの11月29日で終了するという。・・・
この写真の「神棚」は、いま「上時国家」として残る住宅に
残され、飾られていたものです。
この国指定 重要文化財の住宅は、いまから188年前の江戸期に建てられたもの。
「名工・安幸」と名の残る大工棟梁がなんと28年かけて竣工させた。
おいおい、でありますが、時国家は北前船交易にもからみ、
活発な江戸期の経済活動に参画していたので、
このような破天荒な本物志向で住宅建築、発注したものでしょうか。
それとも、この棟梁さんはあちこち掛け持ちでなかなか工事に集中できずに
だらだらと時間が掛かったのでしょうか?
残った住宅を見ると、さすがに大納言格式といわれるほどの出来映えであり、
大工棟梁としての人生をかけた労作であった、という方が正解に近いでしょう。
多少の工事中抜け期間はあったでしょうが、作り手の気迫は継続したに違いない。
よく神棚は、その家を建てた大工が、最期のワンピースとして
手づくりで作るというように言われます。
この上時国家の入口玄関にはこの神棚と同じ唐破風が装置されていますが、
神棚に唐破風までデザインされているものは見たことがなかった。
先日、富山の宮大工の手仕事の装飾木工品をわが家にいただいたのですが、
こうした手づくり工芸品の佇まいというのは、格別に感じる。
家に装置させてみて、その時間積層がじっくりとつたわってくる。
いわば画竜点睛というようなコトバの感覚に近い。
それが最期に一点加わることで空間にいのちが吹き込まれるみたいな
そういう空気感が漂うものだと実感させられる。
で、写真整理していて、やはりこの神棚にはそういう作り手の気迫が
ジワジワと伝わってくるパワーがあると感じられるのです。
28年間も手塩に掛けて作り上げた住宅。ほぼ職業人生時間に相当する。
ちょっと気の遠くなるような時間をひとつの住宅に対して掛けて
さてどんな心境で最期のワンピースを仕上げたか、想像力を掻き立てる。
現代でこんな家づくりというのはどんな高級住宅でもありえないだろう。
そんな家の様子を写真構成でまとめますが、その最期のワンピース先出し。
あ、注連縄も手づくり感ジワジワ・・・。
Posted on 11月 28th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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