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開拓と神社開設

写真は北海道神宮の「さざれ石」であります。
君が代にちなんで、篤志の方が寄贈されたようです。
なので、特段、神社とさざれ石には深い関係性はどうなんでしょう。
ただ、きのう書いたようなことは想像できるものとは思います。
で、こんなことを調べていたら、
北海道神宮のパンフレットというものもありまして、
神宮には4つの御祭神があって、
大国魂神 (おおくにたまのかみ)  北海道の国土の神様
大那牟遅神(おおなむちのかみ)   国土経営・開拓の神様
少彦名神 (すくなひこなのかみ)  国土経営・医薬・酒造の神様
明治天皇 (めいじてんのう)    近代日本の礎を築かれた天皇
の4つなのだそうであります。
明治天皇は、没後に増やされているので、
当初は、上の3つが北海道の神様と言うことになります。
明治二年に東京の神祇官から、2代開拓長官の宮様が
この「開拓三神」を授かって、函館まで船で来られ、
そこから「開拓判官・島義勇」が、背中に背負って、
とりあえず、小樽市銭函まで来て、そこで頓宮し、
さらに人跡未踏のような札幌の地に向かい、
現在の札幌市中央区北5条東1丁目に、仮の社を造営したのだそうです。
その後、明治4年9月に現在の札幌市中央区円山に移ったと言うこと。

この島義勇さんという方は、
江戸末期に蝦夷地探検の実績があり、
そういうことから、宮様から目を付けられて判官職を拝命したようです。
札幌の都市建設においては、ほぼ無人の原野であった地に
「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描いたといわれます。
まぁ、その後には「佐賀の乱」の首謀者として捕らえられ
刑死する最期を遂げるわけですが、
どうなんでしょうか、やや誇大妄想的な所があったのかも知れません。
よくいえば、稀有壮大、ということでしょうが、
「五州第一の都」というあたり、やや傾きを感じざるを得ません。
ただ、都市計画においては、
ケプロンさんなどの「開拓お抱え技官」など、アメリカ的な
発想と都市作りの考え方が大きく取り入れられていたと思います。
現在残されている円山公園は、
北米的な自然保護公園の趣があります。
街割りの規模の大きさは、日本的スケールではなく、
一般的な道路で30m近くあり
中通りですら8m道路になっているという
稀有壮大さが、そのまま残っている部分もあります。

でもまぁ、開拓三神を背中に背負って
未踏の地に分け入っていくという、
そういった体験は、体験したものでなければわからない、
使命感をもたらしたことだろうと推測されます。
なんといっても、神様を背負っていくのですから、
多少、神掛かるのもやむを得ないかも知れません(笑)。
ほんの百数十年まえにこんなことがドラマとして展開していたのが
わたしたちの住むこの街なんだなぁと、
想起させていただいた次第です。

北のくらしデザインセンター
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One Response to “開拓と神社開設”

  1. 毎日、楽しく拝見しています。私は、今、横浜に住んでいますが、3年前に福島市に、家を建てました。現在、二本松の農家で月、一回ですが畑を手伝っています。家は、シンプルな木の家です。もし良かったらいらしてください。工務店は、 「芳賀沼製作 」です。

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