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【明治10年代永山武四郎邸・和室の出窓】



灯台もと暗しというコトバがありますが、
札幌にいてしかも建築と歴史にけっこう興味がある人間なのに、
ふしぎと足を運ばなかった建物があります。
旧永山武四郎邸。新型コロナ禍出来以来、明治初期北海道の建築探訪、
「高断熱高気密事始め」みたいな北海道住宅の歴史掘り起こしは休止状態。
ときどき復活させて記事紹介していますが、また時事の話題に振れる、
そういう繰り返しで、札幌市内中心部に残るこの建物は放置してきていた。
昨日、ようやく宿題のようになっていた探訪を果たせた次第。
・・・なんですが、周辺駐車場の値段の高さには呆れた(笑)。
1時間900円って、ここは東京都心か?であります。料金事前明示がなく、
まったく空いていたのでつい入庫しましたが、あれでは確かに誰も利用しない。
お隣の商業施設駐車場がはるかにコスパがいいのでみんなそっち利用で行列。
全国企業の駐車場大手の管理でしたが、ああいうのは独占企業の
弊害がモロに出ちゃっていると思われます。きっと単価は上げても
利用率は激減し、オーナー側は大きく不利益だろうと推測。
おっと、大きく横道ズレまくり(笑)。

永山武四郎というのは、明治開拓期の北海道史で名高い軍人・政治家で
黒田清隆と同郷・薩摩出身の軍閥で西南戦争に「屯田兵」を率いて南下した。
出陣したが、戦地に赴く前に東京で西郷軍の敗北を知って
実際の戦闘は交えなかった。軍司令部内部で同郷軍との戦い最前線配備に
ややためらいと配慮があったものかも知れない。
軍人事跡はこうしたことが知られているけれど、長く北海道庁長官受任。
この写真の「邸宅」が明治初期の開拓使時代の住宅建築の象徴的存在として
ながく札幌の地で残り続けたことで住宅史的に名高い存在。
建築当時、いまのこの地域(札幌市中心部・サッポロビール園隣接)は、
開拓使による殖産事業実験の最先端地域だったとされている。
そういう時代の雰囲気、空気感のなかで「寒冷地住宅」が試行されていた。
同好の好事家Tさんから、この和室の「出窓」について聞かされていたので、
興味深く見学させていただいた次第。
和室と出窓という組み合わせは、いかにも「和洋折衷」住宅らしいデザイン。
あした以降触れますが、隣の本格的和室では「縁側」を介して庭を見る仕様。
日本住宅建築の定型パターンで、日本住文化そのものだったと思われる。
そうした主室に対して、こちらは東側に面して庭景観も考えられる配置ながら、
写真のような「出窓」が開口されている。
和室なのにやや腰高程度の高さがあって、しかも上部にはカーテンボックス。
そして出窓は左右押し出し型で全面ガラス建具となっている。
中央部もたぶん左右に観音開きのようで内側には網戸も仕込まれていたけれど、
こちらは建築当時の仕様かどうかはやや疑問。
建具の造作金物を見るといかにも「洋式開口部材」が使われている。
洋式の開口部仕様が和室に導入されている。明治初期と考えるといかにも実験的。
しかし一方では出窓の下には刀を隠しておく収納とのこと。う〜む。
設計者の詳細な記録は存在しないようですが、当時の状況を考えれば、
開拓使の建築部局が関わっていたことは明らかで技術者・安達喜幸が想像される。
「和室だけど、南面もしていないし防寒優先で出窓にしますか!」
といったノリで建て主・設計者が意気投合しこの仕様が採用されたものか?
夜に防寒のためもあってカーテンを閉めると、和の空間が洋で閉ざされた。
で、布団で寝て、朝カーテンを開放して出窓越しの朝日を見る暮らし。・・・
寒冷地での日本人の「新常識」ライフスタイルを探った明治の革新。
一種独特な「寒冷地住宅」ライフスタイル事始めを実感したかも知れない。

この時代の「日々革新」といった開拓初期の空気感が
かなりの迫真性で感じられた次第であります。
作り手と建て主の日本建築「常識からの離陸ぶり」に共感を持つ。

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