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【モノと人間の「愛着」関係】

わたしは普段、わりとよくウエストポーチを使っています。
よく「切符切りの人みたいだ」とは言われるのですが(笑)
女性のハンドバッグのように男でも常時携帯不可欠なものは当然あるので
それらを集中して収納し持ち歩くというのは、
モノを忘れることがなくて便利だと思っています。

そういった必要性から使い続けてきたので
多少は好みのようなモノはあったけれど、ほぼ無造作に選択して
ずっと使い続けてきていた。
それがきのう、買い物に出掛けた折りにベルトを通していた保持部分が破断した。
「おお、」であります。
人間は必ず死ぬように、モノにも確実に寿命はある。日々使うものならなおさら。
このウエストポーチは人口皮革製だったようで端部で表面が破壊され、
内部保持の繊維質部分が露出もしていたけれど、特段の不具合も感じなかったが、
たまにカミさんから指摘され彼女は気にかけていた。
都度「あはは・・・」という意味不明反応(笑)で素知らぬふりを決め込んでいた。
「・・・いいべや、そんなこと」
という男女の意識を分ける決定的な部分の相違でしょうか。
外見をどうしても気にする女性感覚と、一部が破断していても
基本的なモノ性能が保持されているのであれば、特段気にしない、
という男性的ズボラ感覚のすれ違い、といったところでしょうか?
ただわたしの場合、機能を満たしているのであれば、
その表面的な一部分が破綻していようが、むしろ愛し続けるようなところがある。
っていう自分自身の性向に気付く機縁になっていた。
これを「愛着」と呼ぶことには、よく分からない部分がある。
愛着とは、しっかりした「保持管理」が前提であるとも思う。
それを大切に思うのであれば、一部でも破綻したら補修は心がけるべきではないか、
という意見にも大いに同意するからなのです。
しかし自分自身では、多少の破綻もまた、モノの個性というように
受け取りたい気分は濃厚にあるのですね。一種の偽悪趣味か?
また、そういう種類の「愛着」心理というのもあるのではないかと思っている。
ただ、そこまで日頃から「愛着」を持ってこのモノと接してきたかと問われれば、
それ以上はよくわからない。でも気にせず使い続けてきていた。

機能性が破綻したことで、別のウエストポーチに昨日無事買い換え。
同行してくれたカミさんからも審美的及第点をいただいた。ホッ。
やがてその不在に空洞感を感じたりするのだろうか、まだわからないけど、
断捨離よろしく、キッパリとゴミ出しして離別することに致します。
でも考えてみれば、このウエストポーチ、20年以上は相棒だった気がする。
心の中では、供養を唱えたりしている・・・。

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