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日本という国号

日本という国号が定まるのは、
唐との外交関係において、従来の倭国という国号を
「日本」というように変更したい、と正式に申し入れて
それが国際的に認められた、という形式を踏んで行われています。
当時の、国際関係を考えれば、
唐の王朝というのは、中国を統一している、
皇帝であり、その朝廷というのは、
アジア世界での国連のような存在だったでしょうから、
まぁ、現代のような透明性はない、ナマな権力ではあっても、
ここで認定されたと言うことは、国際的認証を正式に受けたということですね。
で、日本という国号は、よく考えたものだなぁと思います。

まずは、唐の王権に対して、
そこを中心に考えていますよ、
という由来的に、納得できるものであること。
なぜなら、唐の国から見て東側にあって、
科学的に、当たり前の事実として
「日の出ずる方角」に位置しているという明確な事実に基づいていること。
これは唐の王権にとっても、まことに当たり前であったでしょう。
しかし、それを逆手にとって、
日本、というのは、日の本であって、
唐の王権をも超えるような意味的な優越性が感じられる。
たぶん、唐側でも異論はあったのではないかと思われます。
しかし、そういうことはあまり形跡が見られず、
すぐに、日本という国号が中国では広がっている。
読みの関係で、ニッポンという読みと、ジポーンという読みが
中国内部で別れ、ジポーンという読みが
世界的に広がっていく中で、Japanという英語表現に至る。

で、こういう交渉を対外的に
成功させた日本の知恵というか、交渉力はなかなか評価できる。
しかも、これは、白村江での戦争後の微妙な情勢の国際交渉の中で
行われているのですね。
こういう事実から考えて、当時の日本の中心になっていた
百済などの半島からの渡来文化人たちの優秀さが伺われる。
たぶん、藤原氏の始祖に連なる連中が、こういう交渉を
リードした存在だったのだろうと思います。
しかしそれにしても、中国語に対しての深い教養と交渉力が
みごとに結実したものではないのか、と思うのです。
その後の、中国権力との付き合いで
比較的に独立的対応を続けてこられた根拠に、
最初のこういう交渉経緯が預かっているし、
国号の意味合いというものが、イメージとして大きな要素を
果たしていたのではないかと思う次第です。
<写真は皇居東御苑の千代田城址>

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