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【戊辰戦争・五稜郭とならぶ「弁天崎御台場」城塞】



本日は、住宅ではないけれど歴史的な北海道幕末明治「建築」探訪シリーズ。
それもいまは消え去った幻の建築空間です。
函館の街は、明治の「北海道住宅始原の旅」探究で存在感が際だつ。
明治天皇も明治14年の行幸の前、明治9年段階で東北から函館にだけは
上陸を果たしている。まことに北海道の「表玄関」。
そして同時に江戸幕府が果たした役割の歴史残滓も色濃く残っている。
「五稜郭」城郭が最大のものといえるけれど、同じ設計者の作った
いまは失われた「弁天崎御台場」に強く惹かれた。
北大データベースに残っている上の写真を見てこの台場の威容は出色。
美しい石積みやアーチの出入り口が独特の構造美を見せている。

お台場というのは近代戦争における打撃陣地・砲台城郭建築であって、
海軍的視点での国防面で死活的に重要なものだったと思う。
現代戦は空軍、宇宙軍、サイバー軍が死命を制するのだろうけれど、
明治初頭の歴史段階では最大の攻撃力は海軍軍艦でありそこからの艦砲射撃。
その軍艦は機動力抜群とはいえ、エネルギー補給のためにも
良好な「軍港」が必須とされる。箱館は函館山という海に突き出した防壁をもち
囲い込まれた内海もあるという天然の「錨地」。
津軽海峡というアジアと太平洋をまたぐ戦略的要衝ともいえる。
世界中からアジアに向かってくる各国海軍にとって垂涎の地だっただろう。
いまもロシア正教会系の影響も残るほどロシアも強く興味を持っていた。
開港地として箱館が選ばれたのにはそういう価値があった。
五稜郭はこの防御機能の良港からさらに数キロ内陸後退した安全地に立つ。
なぜ江戸期の松前藩がこの天然の要塞地域を見過ごしていたのか、
その政略的不明、武家としてのオンチぶりにだれもが驚かされる。
ただただアイヌからの攻撃をおそれ、農業開拓努力もせず
この箱館から約100キロ離れた絶壁のなかの松前に引きこもり続けていた。


主城である五稜郭と、この「弁天崎御台場」の位置関係をいま見ても、
ここがいかに戦略的なスポットであるかがわかる。
入港する軍艦艇に対しての防衛打撃力は抜群の位置関係にある。
事実、榎本武揚はこの台場からの砲撃を怖れてはるかに迂回して
北方・鷲ノ木から上陸して箱館・五稜郭を占領している。
江戸幕府は幕末開港地としての箱館にこの重要な城塞建築を2つ残した。
五稜郭とそしてこの弁天崎御台場城塞建築。
その両方を設計した人物が武田斐三郎という伊予大洲藩出身の武人。
日本初の近代城塞を設計し、その科学知見に来航した米海軍人ペリーも刮目した。
戊辰では中立的に対応しその後能力を買われ新政府で陸軍創設に尽力した。
科学者、教育者、陸軍軍人としてその豊かな才能を残した。
台場建設費用は10万両の計画で安政3(1856)年着工、竣工は文久3(1863)年。
土や石は箱館山のものを使い重要部分は備前御影石を大坂から運んだとされる。
台場の形状は不等辺六角形で周囲は390間余(約710m)高さ約37尺(11.2m)。
星形の平面形の五稜郭、変形6角形弁天崎御台場とも近代戦への先見性が高い。
まぁわたしは軍事オタクではないので建築的に見てということですが、
機能の優れたものはカタチも美しくなると感じる次第。
見方によっては五稜郭以上に美しい建築だったと思うのですがいかがでしょう。
戊辰箱館戦争では主城の五稜郭と連携して奮戦したが、補給を断たれて
守備隊の新選組が降伏し新政府の軍門に降った。幕末を疾駆した新選組終焉の地。
その後この弁天崎御台場は明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り
明治29年港湾改良で壊され跡地に函館ドックができた。存在期間34年間。
いま残っていればと惜しまれる建築。

旧幕府は政治戦略・国家統治では失敗のそしりは免れないけれど、
ほかのアジア国家権力からすればはるかに先見性はあったし、
軍事政権としての終焉でも戦乱は発生したがほぼ平和的といえる政権移譲だった。
明治国家は江戸の街を無傷で獲得し北海道開拓の基盤も得られた。
前政権の基盤的成果を十分に活かして飛躍することが出来たのだと思う。

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