北海道住宅始原期への旅、というシリーズ展開。
すっかり明治初年の北海道探偵団のようなブログになってきた(笑)。
こういうディープラーニングというのも楽しいものだと実感しています。
というのは、その時代の空気感がさまざまに想像されてくる楽しみ。
きのうは明治の「コトバの文化大革命」について書きましたが、
総体としてのこの時代の状況が、断片的にスピンアウトして迫ってくる。
知識としてアタマに入っていることにリアリティが湧いてくる、
そんなような感覚に包まれるようになります。
こういう作業を進めるほど、明治の北海道開拓と寒地住宅創造との
強い相関関係が明瞭に浮かび上がってきます。
北海道人、それも住宅に関わっている人間として知っておくべき原点ですね。
島義勇は「開拓使判官」という高級官僚ではありますが、口述記録資料では
雑魚寝の寝床で、誰かの足が判官のお腹に乗っていたような既述もある。
馬上から指示していたのではなく自分もまさにカラダを張っていた・・・。
札幌市公文書館・榎本洋介さんの平成30年5.28「講演」の
記録文書を読み進めていて、表題のような資料を確認しました。
公文書というのは無味乾燥な役所言葉の羅列で、
あんまり詳細に目を通すという習慣はないのですが、
さすがに北海道公文書の最初期、小樽銭函の民家を借り上げての「仮役所」
茫漠たる札幌のそれも降雪時期に突貫工事で完成の「役宅」で
なんとか機能を果たせるようになった時期の役所記録です。オモシロい。
金額自体の既述は省略されているのですが、
用途分野、日付、内容、関係者などの既述から生々しい現実がうかぶ。
「御金遣払帖」という名前ですが、金銭出納であります。
島義勇は、この十数人とされる役人集団のトップとして
日々の「決済」事項をこなしていたのでしょうが、
その具体的な指示内容が記録から見えてきます。
まずはじめには数カ所「縄」という既述がある。
いわゆる「縄張り」という土地区画作業がありますが、
まさにその通りに「ここはこういう場所」というように縄を張って区画整理した。
まったく人跡の乏しいこの時期の札幌、縄は当然本州からの移出品。
本州地域とは「場所請負制」と経済構造の違いもあって物価についても
万事、輸送費が上乗せになっていたとされています。当然。
また当然ながら「建設」の用途支出が圧倒的に多い。
雑木伐り出、細工料・鍛冶、小屋懸けなど常識的な支出に混じって
「骨折りに付き、ほうび」という項目まであって笑える(笑)。
これで「公文書」として通用して許諾された事実も面白い。
ほうびにさて、なにを配ったのか、妄想が強くなってくる。
建設肉体労働の人足の「足止め」対策には、この当初から官の側は
問題認識を相当強く持っていたと思われます。
ほとんどが単身赴任のかれらは、その環境に疲れて
「朝になっても出てこない」というケースは多かっただろうと思います。
後年、というか明治5年ころには官製の「遊郭」ススキノが
土塁に囲まれた形で忽然と新開地に出現して、夜の赤レンガと言われた、
その事案の初見のような記述ではないかと思われました。
夜の女性たちの笑顔が日々のストレスを和らげる最上のごほうび。
まさに生々しい「開発事業」の断面・側面でしょうね。
ひとつひとつの「支出項目」を仔細に見ていると
この当時の札幌の地でのひとびとの息づかいが伝わってきます。
Posted on 12月 5th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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