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【明治モダニズム=ガラス窓 野幌屯田兵中隊本部】



北海道住宅始原期への旅です。
きのう触れた江別市の地質的な高台地形、舌状台地に立地する建物。
古地形的に見ても、北海道の石狩低地帯のなかの「要衝地」。
石狩川は上川地方の淵源地から扇状地を作りながら南下して
この周辺になってくると、平地になって蛇行が大きくなる。
古来、氾濫を繰り返してきたことが明らかに見て取れるそうですが、
明治の開拓期の地形測量でもそのように判断して
やや高台になっているこの「野幌丘陵」地域を屯田兵村地域と定めた。
舌状台地の突端が石狩川に対面するような位置関係に相当する。
兵村の展開は波状的に数回にわたって行われ、
旧軍隊組織の「中隊」規模にまで多数の屯田兵屋が配置された。
札幌の琴似、山鼻に続いて3番目に入地が進んだ地域です。
農地という選定基準もさりながら、交通も当然、北海道内内陸地の
戦略地形的な要衝地という認識があったということでしょう。
兵村の展開としては、琴似が「集村」形式で一戸あたりの家屋面積が
150坪と小さめの敷地の都市型であるのに対して、
こちらでは一般的には4,000坪程度の区割りで「散村」形式が取られている。
もちろんこの4,000坪でも「農地」としては小さいので、ほかにも
土地は割り当てられていたということです。
屯田兵村の各戸配置計画はその兵村ごとにいろいろな試みがされている。
また建築工法としても、間取り計画としても変遷が見て取れる。
開拓使の後継組織という性格も強い地方政府組織「北海道」が
全国でも稀有なほどに「住宅政策」について強い関心を持つのは
こういったDNAの作用が大きいと思っています。

この建物は建築年代は明治17年とされています。
翌年18年から「中隊本部建築」として供用されたということ。
面積は1階が42.6坪、2階が36.1坪の総面積78.7坪。
面積が不整合な数字になっていることからわかるように
ツーバイフォー工法の原型である「バルーンフレーム」構造の木造。
時計台と同じ建て方で、洋風建築といえるのですが、
玄関ポーチなどは、日本の神社仏閣の建てられようを採用した
「和洋折衷」というような説明でした。
日本最初期の洋風建築というのは「ガラス窓」という概念が特徴的になる。
北海道開拓使の公邸として岩村判官が住んでいた建物は明治初期、
「ガラス邸」というように呼ばれていたそうで、
このような「ガラス窓」がモダニズムの象徴だったことが偲ばれます。
それまでの日本建築には仏教建築での幾何的デザインの窓などを除いて
窓についての文化伝統は見出しにくい。
ガラスが本格的に導入されて「洋風建築」が作られるようになってはじめて
日本人は、内から外の眺望を楽しむ窓の歓びを知ったのではないか。
もちろん引き戸の建具で閉じられた室内を開放して庭と一体化するという
そういう感覚はあったけれど、身を内側の落ち着いた空気環境に置いたまま、
風景だけが切り取られて額縁付きの「絵画」として認識できたのは、
このような明治の建築がはじめての「体験」を提供した。
その初源の気分をなんとなく感じさせてくれる室内情景です。

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