北海道住宅始原期への探究です。
明治の新政府による移住政策の推進、民の動向が探究のメインですが、
やはりより古い時代からの「流れ」というものも存在する。
直接の日本国家による「投資」的進出、住宅建築とは別に
先史からのこの地域の動向というものも押さえておきたいと思います。
図示しているのはきのうの「6000年前の石狩湾」の平面図表現。
いまの道央地域、石狩低地帯の6000年前の姿。
この状況から現代見ている石狩平野状況まで推移してきた。
普段の生活認識では、石狩平野地域での「高低差」というのは
なかなか感覚しにくいのですが、しかし先人たちにとって
こういう高低差というのは決定的だっただろうと思います。
まずは海からの高さがあることで、安定的な陸上生活が可能になる。
その基本ポイントで見る習慣が現代人から失われているのかも。
しかし、最近の気候変動・水害被害などは、そうしたことへの
気付きをわたしたちに再度求めてきているのかも知れない。
この図で気付くのは、この石狩低地帯・古石狩湾地域での
「江別」地域の位置です。
この地域は明治以降、2つの札幌地域での展開に続いて
屯田兵村が3番目に展開した、明治期にも重要と目された地域に当たる。
石狩川は北から南下し、この周辺から西に大きく流れを変える。
その流域に対してやや高台に位置する舌状の「突き出し」地形。
考古的に遺跡群が、この古石狩湾とのウォーターフロントで
たくさん存在し続けている。この海ではクジラ生息まで確認される。
また歴史年代8世紀には日本社会中央と関係の強い「古墳」も造営された。
近現代の地理認識からいえば、交易といえば日本の西海岸地域、
日本海側地域との交流が自然と思われるのですが、
この古墳から出土する遺物からは、青森県東部地域との連関が浮かぶ。
むしろ八戸周辺の文化との交流が感じられるという。
この図の南側、太平洋側・苫小牧方面との「交易路」が想像されるワケ。
遺物からは地元人か、あるいは青森県東部地域の「出先」であるか、
どちらともと類推できるとされている。
そもそも石狩川自体、ずっと南流していたのが本来で、苫小牧方面
太平洋に流れていたという説も強いのです。
縄文の世13,000年前ころからこの列島には人が定住してきたので、
6000年前のこの図の地形当時も相互での交流はあったでしょう。
なにしろ、この図の右上側「東蝦夷」オホーツク側の「白滝」から
「黒曜石」がたくさん本州島各地に「出荷」されている事実がある。
江別地域の舌状台地はこのような位置にあったのですが、
明治以降、日本国家はこうした先史からの流れを知ってか知らずか、
古石狩湾地形上でもやや同質性の感じられる札幌地域に
北海道開拓の首府を構想し、旺盛に北辺経営に乗り出していった・・・。
Posted on 11月 5th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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