写真は北海道の石狩湾の上空から南東・ニッポン方向を見下ろした様子。
上の図が今から6000年前で、下が現在の様子。
わたしのブログでは数回、こうした「過去地形」を考えてきています。
最近の「気候変動」の原因についてそれをCO2の問題と
教条的に決めつけるのには単純には同意できません。
むしろそれ以上に、過去から繰り返されてきた地球気候全体としての
温暖化、寒冷化のサイクルということが大きいだろうと思っています。
そのことを明確に証明しているのがこのような「大地の変容」。
以前にも、関東や関西の大地の姿が歴史年代でも変化していると書きました。
直近では大阪平野が実は、河内湖、さらにそれ以前は瀬戸内海とつながった
内海であって「浪速」という地名自体がその事実を痕跡として伝えている
事実などに注目していました。
大阪の場合、このことが「神話」とされてきた神武東征に
どうも深く関わっている可能性があるとも思われる。
日本史としてはたいへん重要な背景に大地の変容が関わっている。
で、そういう考古的事実発掘を、ここ最近取り組み始めた
「北海道住宅始原の旅」の随伴事実として掘り起こしている。
昨日、以前から気に掛けていた石狩〜江別周辺の歴史探究めぐり。
たくさんオモシロい発見もありました。
やっぱり実際に目で見て現地で体感するのは貴重な機会。
このジオラマ鳥瞰図にはいたくリアリティを刺激された。
石狩平野が日本海と太平洋とつながる大きな「運河」地帯だった
そういうことは知識があったのですが、
それをもっとリアリティたっぷりのビジュアルで感覚できた。
石狩平野はそこで人生を長く過ごしてきたのに、
その地形全体についてあんまり考えたことはなかった。
このジオラマ図では石狩低地帯といわれる全体像が浮かび上がる。
遠い記憶で小学校時代に「泥炭地」という表現を繰り返し
授業で耳にしたけれど、それはこの図のような考古事実が反映している。
6000年前というのは、縄文も後期になる時期であり、
三内丸山などは十分に射程に入ってくる時代だと思います。
江戸期でも「東蝦夷地・西蝦夷地」という区分があるけれど、
この図のようにそもそも地形的に分かれていたと知れば
想像力がもっと飛躍できると思います。
もともと北海道では和人の進出前の記録に乏しいので、
いきなり考古の時代に遡って遺跡群が残されている。
その地形的背景理解としてこのジオラマは、大きな気付きになる。
文化の日の1日、大きな収穫が得られた気分であります。
<ジオラマ図は石狩市教育委員会2016.8.31・志賀健司氏資料より>
Posted on 11月 4th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 未分類
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.