北海道では「開拓期」移民・移住が、本土社会で行き詰まった
生活上の困窮からの止むにやまれぬ苦渋の決断だったことで、
その必然的な貧しさゆえ住居がより始原のカタチに戻らざるを得なかった。
わたしたちのほんの2−3世代前の先人のスタートはそこからだった。
しかしこの地が積雪寒冷という極限地域だったことで、
そこから母体の「ニッポン住宅」とはまったく別の発展
〜高断熱高気密が始まったという事実がある。
開拓から150年近い年月が経過し「経験したこと」をふり返って見て、
さらに一歩進めて日本社会に還元していくことというのも、
心がけて行かなければならないのだろうと思います。
基本的には、開拓から日が浅いので地味が他地域以上に豊かで
より自然に近しく、日本全体の食料生産拠点として地の利がある。
IT化が進行する現代世界ではバーチャル化発展が進むけれど、
食料というリアルの世界で、アメリカ的農薬管理大型農業ではない、
知恵と工夫と、この地の利を生かした日本農業の先端性が
大きな発展可能性を持っているだろうと思います。
さらに次いでの領域は「あたたかく住みごこちの良い家」
という住宅建築についての技術開発だろうことは明確でしょう。
3−4代とはいえ、積んできた歴史蓄積に対して
建築ランドマーク的に意識的でなければならない。
そんな明示的な「素材」というものはあるのだろうか、
そんな意識に気付きを与えてくれたのが、きのう見学した家。
北海道開拓時期「木骨石造」という建築が多く建てられ続けていた。
札幌市の南部の「石山」地域から、支笏湖カルデラ噴火での
噴煙堆積物としてやわらかくて加工しやすい「石材」が豊富に産出された。
これに最初に目をつけたのはアメリカからこの地の開拓に
助っ人として来てくれていた「建築技官」たちだったと言われる。
石で建築を作るという文化はそれほど根付いていなかったニッポンで
構造骨格は木造で作って、壁を石山軟石で作るという建築が多く作られた。
初期の開拓民にとってそれらの建築は、ほとんど始原的住居に暮らす日常から
坂の上の雲のように見ていた憧れだったのかも知れない。
ある時期までの札幌の景観のエキゾティシズムの一部分を彩っていた。
この家ではその石山軟石を薄くスライスした素材を
外壁材としてあらわしていた。
重厚な色合いのレンガと対比させていて永続性を感じる。
この素材はその後の「ブロック住宅」とも組成が近しく、
やはり短いとはいえ、北海道150年の歴史の証人ともいえる。
こういう素材を意図的に使っていく住宅には、
いかにも「この地に建つ」というアイデンティティが感じられる。
そんな思いを持って、見学させていただきました。
Posted on 8月 28th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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