最近は日本画がブームということなのでしょうか。
西洋絵画をみることがめっきりと減ってきています。
っていうか、あまりにも生活文化背景に違いがありすぎて、
作品への内的な「同意」がなかなかおぼつかなくなっている。
やはり日本人として、感受性の共有に敏感になってくるのでしょうか。
ということで、日本画では「国民作家」といわれる
東山魁夷さんの展覧会が札幌の北海道近代美術館で先週日曜日まで
「唐招提寺御影堂障壁画展」が開かれていましたので、
カミさんから久しぶりのお誘いをいただき、大喜びで参観。
この展覧会は、全国で巡回的に展示会を開催していたようです。
唐招提寺が東山魁夷さんに、その開祖である鑑真和上さんの事跡に即して
御影堂を飾る障壁画を依頼し、10年を超える時間を掛け完成させた大作。
日本画の大きな特徴として、いわゆる「壁画」というものではなく、
建具としての引き戸に描かれることが一般的。
したがって、カンバスは建築的な柱梁架構によって縁取られることになる。
西洋絵画が主にカンバスに描かれ、作品単独性が強いのに対して
日本では建築との一体性がさらに強いように思われます。
本来であれば、やはり年に3日ほどしかないという「ご開帳」時に
奈良の唐招提寺で拝観するしかないのですが、逆に言えば、
建具であることで、このように移動展示することも可能だと言うこと。
日本らしい、ということはそんなことからも感じられる。
鑑真和上さんは世界文化としての仏教を導入した青年国家ニッポンを思い、
仏教の魂を移植するという宗教者としての使命感に殉じた人物。
日本の聖武天皇のころ、奥州で黄金が出土し
東大寺大仏、全国に国分寺・国分尼寺が建設されていった、
鎮護国家思想の最興隆期にあった時代。
日本側から繰り返された「招請懇願」を受け中国仏教界の指導者たる
鑑真和上さんが、何度も困難に遭遇し失明までしながら、
来日し、この地に骨を埋めてくれた故事に由来する。
奈良のこの時代は、日本の経済発展期に相当するそうで、
人口の拡大と奥州での産金によって、空前の国家プロジェクトが推進された時代。
東山魁夷さんは、依頼を受けて都合6つの作品を奉呈している。
写真は購入した「図録」ですが、この表紙に描かれた作品は「濤声」。
展示では最初のコーナーで、実際の唐招提寺での展示と同様な
柱梁による空間が再現され、その障壁を飾った様子が再現されている。
東山さんは、この絵を描くに当たって日本海側の日本の海を何度もスケッチ旅行し、
そのモチーフで鑑真和上さんが乗り越えてきた万里の波濤を表現した。
その端には砂浜が描かれて、この列島への上陸を暗示する構成になっている。
そして御影堂の「上段の間」の床の間から周囲の障壁に描かれた「山雲」。
このふたつを鑑真さんの来日をテーマとした初期奉呈作品とされ、
その後後期の作品として鑑真さんの中国での様子をモチーフに3作品作成。
そして最後のワンピースとして、鑑真さんの座像を収めた厨子絵までも
かれが苦難の末にたどりついた鹿児島上陸の絵で締めくくっている。
個人的にはやはり床の間を飾る大作「山雲」に圧倒されました。
なぜか、みなさん素通りされていたので、たっぷりゆったり拝観できました。
やはり日本画はわかりやすく、親近感を持てて素晴らしい。しっかり堪能。
さて本日は東京出張。建築の「2次インスペクション」というテーマの審議会参加。
北海道では住宅の審議会、参加機会は多いのですが国の審議会は初めて。
どんな状況になっているか、しっかりウォッチしてきたいと思います。
ユーザーの立場ということで、ご報告可能であれば様子もお知らせします。
Posted on 7月 31st, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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