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【人間生活文化の中心軸と「都市計画」】

先日、日本の建築をリードしている某研究者と懇談していました。
話題はよもやまになっていったのですが、
普段から非常に気になっていることとして「都市計画」の話題に。
わたしは、雑誌・情報の世界で住宅建築に深く関わって生きてきましたが、
自分自身は建築を学んだ人間ではありません。
あと学問的に建築という領域と接点を持ってきた一般人であります。
そういう意味では一般の人間感覚として建築に関わってきた。
そういうなかでいつも素朴に疑問を持っていたのが、
「都市計画」という領域についての疑問です。
建築研究の世界では、この都市計画は最上位に位置すると聞いています。

たしかに個別の住宅がどんなに進化しようが、
その立地する地域、都市それ自体が衰退し、過疎化すれば、
人間の「住む魅力」というものは大きく減衰してしまう。
都市というモノは、そこに住み続けたいと思えるサスティナビリティが不可欠。
その中心軸として「公共空間という磁場」が大きいと思える。
で、わたしは一般人、それもふつうの文系人間として、
むしろ歴史とかに学ぶ部分の方がはるかに優越している。
そのように考えると現代の「都市計画」よりも、もっと前の時代の都市計画に
むしろ妥当性を強く感じ続けています。
札幌では人口膨張に伴って多くの「ニュータウン」が
都市計画家たちの旗振りで造成されたけれど、いまその存続が不安視されている。
公共交通利便性だけで構想された街は、住み続ける中心軸が不在、もしくは希薄。
写真はGoogleの札幌航空写真マップ。
札幌は自然豊かな北海道と言われる割には緑地面積は少ないと言われる。
その数少ない緑地としては円山自然林・北海道神宮が、特徴的。
札幌は京都のような「碁盤の目」状の街割り計画で、
そういう意味では東アジア的な都市計画が基本であって、
その中心的な「鎮守の森」として北海道神宮境内地・円山山麓地を措定した。
そこに日本的な公共空間の中心を定めたのだと。
それにアメリカ東部からのお雇い外国人たちが、円山全山を自然保護して
日本の都市の成り立ちの中心的「静寂性」の基本をつくったと思える。
航空写真で見ても、この中心緑地はたいへん有益な公共性を堅持している。
神社や仏閣という存在は、「宗教」的とは言えるかも知れないけれど、
もっと平易で自然なこころで見れば、それが果たしている都市計画的な中心性、
日本人的生活サイクル的な「公共性」は十分に担保されていると感じる。

どうも「宗教色が完全に排除された公共」という、無いものねだりが、
近代的・現代的な都市計画の致命的至らなさの根源ではないのか。
無宗教ということにこだわるあまり、地域の成り立ちの根源をよく見ないまま、
人間生活の中心軸を見ずに、いわば宙を彷徨っているように思える。
こういうふうに感じているのはわたしだけでしょうか?

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