唐破風というのは語感からすると
中国からやってきた建築デザイン様式だと思ってしまうのですが、
そうではなく、日本独自の建築デザインだそうです。
明治以前の日本社会では、都市を作るといえば同時に
神社仏閣をその中心施設として作るということが同義的だった。
聖徳太子が大阪に四天王寺を建てて以降、
日本の権力というのは、かならず神社仏閣を「勧請」し続けてきた。
写真は盛岡市近郊・雫石町内の仏閣・廣養寺の唐破風です。
こういった地方のまちづくりに当たっても、
こうした宗教施設が建築され、人々の参集の場として機能し続けた。
奈良の都以来、こうした宗教施設は
街の中心建築として「にぎわい」の役割を担う建築だったのでしょう。
そういう動機から、建築デザインとしても
「人目をひく」あの手この手を考え続けてきたものでしょうか?
「唐破風」という名前自体すら、海外からの意匠であるかのように呼んで
人目を驚かす、ということに集中してきた。
このような地方中心施設でも過剰なまでの意匠性です。
ここでは、最初は黒っぽく経年劣化していたので気付かなかったほどでしたが、
Photoshopで明度を上げていったら、
ごらんのように「彫刻」が浮かび上がってきた。
手前側には天上の世界で吹奏楽器を奏でている人物像が確認できるし、
奥側にはどうも龍雲のようなデザインにみえるものがあります。
この雫石の寺院は縁起を調べると
〜織田信長の天下統一の頃(1573~1591)、盛岡の報恩寺 五世
鳳庵存竜和尚が勧請開山し、当山二世広鷟和尚により浄居山廣養寺が開かれた。
酒造業高嶋屋及び同米沢半兵衛家の信仰篤く、3200余坪の境内地に
堂宇、諸設備が整備され、当町随一の荘厳さを誇る。〜
というような記述にWEBで出会いました。
おおむね400年前くらいまで遡る縁起のようですが、
特段、火災炎上の記録には当たりませんでしたので、
ひょっとするとこの見ている唐破風、彫刻はそれくらいの古格なのかも。
酒造業高嶋屋とあるので、酒で財を成したとすればこの地の水が良かったのか、
コメが良かったのか、と考えるとやはり雫石という地名から水が良かったのかも。
そういう「有徳人」によって勧請された経緯があったのかも知れません。
酒で儲けたお金でさらに人を集める仏閣を建築して儲けようと考えたか、
いや、単に篤い宗教心が発露したものか。経緯にも面白みを感じる。
また「鳳庵存竜」という法号が見えるので、彫刻にある龍雲は、
そういった経緯に根ざしているのかも知れない。
・・・といったような、妄想を刺激される(笑)。
やはり時間蓄積している建築空間には、時空を超える情報が
さまざまに眠っているように思われる次第です。
古寺巡礼、こういうナゾの発掘解明がオモシロい!
Posted on 3月 30th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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