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【古代の沸騰点、アジア世界大戦・白村江敗戦】

本日は、住宅ネタは小休止で、歴史ネタです、あしからず。
でも写真は先日見学した竹中大工道具館で見た法隆寺棟梁、
西岡常一さんの手書きの建築図面スケッチであります。
日本の建築技術が大きく進化することになったのは、
こういう飛鳥時代の国際交流がその基盤にあったのでしょう。

白村江の敗戦という古代の国際戦争とその国内政治への反映たる
壬申の乱、という時代のことがオモシロくて仕方なくなっています(笑)。
どうも巨視的に見ると、織田信長から秀吉政権、さらに徳川幕府成立といった
国内と外交との沸騰点と、この壬申の乱周辺の歴史経緯は共通点があると思う。
白村江の敗戦は663年のこと。
で、壬申の乱は672年のことなので、この期間は10年ほどの事態。
結果として、壬申の乱で権力を奪取した天武は「日本」を国号とさだめ、
東アジア世界のなかで道教思想から援用した「天皇」という帝位を名乗った。
このことは、日本という地域権力が東アジアのなかで
自主独立路線を創始するという方向、そして平和共存路線に舵を切った
という歴史的結節点だったのだと思われます。
これ以前の大王権力の時代には、列島社会と朝鮮半島社会とは、
きわめて「ひとつながり」の政治情勢共有感が強い。
たびたび朝鮮半島の政治動乱に関与したり、
あるいは倭国国内でも北九州の地域豪族による反乱なども頻発していた。
この時代には倭国では独自に「鉄」を生産することが出来ず、
もっぱら朝鮮半島からの移入に頼っていたとされています。
縄文的ライフスタイルが基層を形成していた列島社会に
コメ生産を基礎としたライフスタイルが導入されていくのは、
同時に支配ー被支配という階級構造を持った半島地域からのフロンティア集団、
はじめから「クニ」構造を持った社会集団が流入してきたのだと思われます。
そういった権力集団は、朝鮮半島地域からスピンアウトした集団だったけれど、
たぶん短期間のウチに半島の母集団以上の経済力を持った。
ただ、コメ農業にとって死活的な「鉄製農具」の補給は半島に頼っていた。
半島社会では複数の国家がつねに併存するような状況であり
相互に敵視し合っているので、こういう倭国の存在を「利用」していたことは疑いない。
天智「天皇」といまは呼ばれている、たぶん「大王」権力の最後の主は
中大兄皇子であり、若いときには蘇我氏を暗殺手段で滅ぼした
非常に「好戦的」人物だったと思われる。
かれは朝鮮半島での支配権をたとえば新羅や高句麗と争うという権力メンタルを
基本的には持っていたのだろうと推測できる。
唐という世界国家が大陸に成立したけれど、この時代、
前政権である隋の度々の侵略にもかかわらず、高句麗は戦争には勝利していた。
主観的意識として、中大兄皇子はそういった冒険的妄想を抱いていたのではないか。
しかし日中朝3カ国が関与した「世界大戦」であった白村江で
地方豪族に動員を掛けて出兵させた倭国軍は潰滅させられてしまう。
このあたり第2次世界大戦で言えば、ミッドウェーでの敗戦ともオーバーラップする。
まさに後の蒙古襲来のような国家的緊張が世を覆い、
同時に地方豪族たちにしてみれば、政権転覆を夢見たことも自明でしょうね。
直接天皇家に関わることなので、歴史的にあんまり語られないけれど、
この時期の歴史理解は、その後の推移にとっても重大だと思っています。

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