一昨日の新そばの会では、おおむね食事が終了後、
炎を囲んでの一時を過ごしておりました。
最近は農家の「野焼き」に対してすら、煙が臭いとかいう
そういった苦情が寄せられるのだという。
野焼きを忌避する発想って、いったいなんだろうと疑問です。
どうもそういう意見には賛同しがたい。
人間の都市的な居住域が周辺地域に向かって拡散して
都市居住での環境の方が優先性を持っていると錯視して
そのような主張を持たれるのかなと思うのですが、納得しがたい。
人間の感受性の中でも大きな領域を占めている臭覚にとって、
炎が発する大きな要素としての匂い、そういうバイタルな感覚を
こういった忌避傾向は、遮断させると思う。
炎は初源的な人類体験。それと接する機会を大切にして体感しないと
人間的なバランス感覚を失することになるのではないか。
「通報」があれば、いまは公権力が
こういう野焼きなどにも介入せざるを得ないのだという。
そういった他責的「個人主義」には、大きな疑問があります。
人類が進化してきた過程で、炎との共生はもっとも重要な部分。
ものを焼いて食するというのは、衛生という意味でもっとも根源的体験。
そして調理という基本的営為を人間は獲得した。
さらに炎を囲むと、そこに沈黙の時間が訪れると思う。
たぶん一箇一箇の人格が、炎と向き合う瞬間があって、
それが寡黙にさせるのだと思っています。
動物として火を扱うことを憶えたのは人間だけだったはるかな記憶が、
蘇ってくるのではないかと思っています。
また宗教とか社会の成立にも、たぶん炎は相当に関与していたように思う。
人間集団のバイタルな結束感を炎はいや増す効果を持っている。
野焼きの煙は、わたし自身の幼年期の記憶の中にも強く残っている。
まだ2才くらいのときに、岩見沢市郊外の農村から、一家は札幌に移住した。
そのときに、移転にそなえて不用な品々を野焼きしたのではないかと
そしてその様子を、こども心に強く焼き付けていたのではと、
そんなふうに思っています。
いまでも、農村風景のなかで野焼きの匂いがしてくると
無性になつかしくて、クルマをつい停車させてたたずんでいたりする。
ノイジーマイノリティが生み出す無味無臭な世界とは対極の
多様性に満ちた感覚の世界を失わせてはならないのではないか。
Posted on 9月 24th, 2018 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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