さて、今回の取材ツアーもようやく一段落間近。
本日が今回最終の取材で、また来週末ということになります。
世間とは逆に、連休二日目のあした、家に戻るという日程であります。
きのうは山梨県での取材。
甲府の周辺と言うことで、宿泊は甲府。
といえば、なんといっても信玄さんにご挨拶に伺わなければなりません。
駅のすぐ近くにあるお城、天守の土台だけ残っているものは、
信玄公、武田家とはなんの関係もない、江戸期鉢植え大名のもの。
この地に成立した武権・武田氏の栄華を伝えるものは駅からまっすぐ北に延びる
「武田通り」の突き当たりにある「武田神社」であります。
ここが、躑躅ヶ崎館の跡地と推定されているのですね。
よく信玄さんは、城を造らず
「人は石垣、人は城」と謳って、守るのではなく
一歩でも国を出て外で戦え、防御的な姿勢を取るな、
と遺言したのに、遺子勝頼は大きな城を造って防備を固めたことが
退嬰的な姿勢と取られて、滅亡を招いたとされています。
なんですが、この躑躅ヶ崎館の跡地に歩いてきてみると、
こんな天然の要害要地はないと思われますね。
城なんて、ほんのちょっと石垣を造作すれば、
背後と左右がしっかりと山でガードされた地理的な位置を占めています。
写真は前面に掘られている環濠からそびえ立つ石垣。
石垣を否定していたとは思えない。しっかり石垣があるじゃないか(笑)。
まぁよく見てみると、形は「人型」ではあるかなぁ、というところ。
でもこの土地に立って思念をこらしてみると、
前には、数限りない甲斐の国の山々が連なっていて、
ここを出て、京都までの道を切り開こうと考えるのは、
かなりの飛躍した考えだっただろうと思います。
老齢も進行する中で、焦りにも似た心境だったのだろうなぁと。
それでも、押して上京軍を編成して、
「雲と興れや武田武士」と、出陣していった心境は悲壮。
このひと、たぶん、軍事的に京都を制圧しても、
伸びきった補給線を信長に叩かれ続けて
結局、京都での政権を維持することはできなかっただろうと思います。
でもこういう老齢にめげず、
立ち上がった姿勢は、勇気と挑戦心の若々しさを感じさせますね。
家康は、終生、信長に学ばず、敵である信玄に私淑していたとされます。
自分に似た資質を感じ続けていたのでしょうね。
三方原の戦いで、完膚無きまでに家康を叩いたときに
上京ではなく、家康の領地を簒奪することに努めて
信長に強い圧迫を加え続けるという作戦もあったのではないかと思うのです。
しかし、それも高齢という自分の条件から
目的達成に集中せざるを得なかったのでしょう。
まぁ、戦国の大スター、敬意を持ってご挨拶して参りました(笑)。
北のくらしデザインセンター
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Posted on 5月 1st, 2010 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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