きのう安土城造営の様子の復元模型写真をテーマにしたら
いろんな方から、コメントをいただきました。
まぁ、北国では春が近づくと「雪割り」公共事業待望が盛り上がって
たくさんの男性が嬌声を上げながら、雪割りしている
というようなオチもあったのですが(笑)
日本史は、いろいろな公共事業に彩られてきているのは
疑いようのないところであります。
土木工事を基本として、建築もさまざまに造営され続けてきた。
仁徳天皇陵などの古代の造営事業は目的自体よくわからないけれど、
奈良の都の造営工事は、明確に古代律令国家のパビリオンであり、
そこに具体的に王宮や仏教建築を建てて見て初めて
「律令国家」というものが具体的イメージになったのだろうと推測します。
東アジア世界共通システムとしての律令鎮護国家思想が具体化した。
そういった余剰生産の富が、権力によって
具体的な形になって残っていく資産を通して
その「公共財」が歴史的景観を形成し、民族性もまた涵養する。
そういった側面から、われわれは叡智を知ることができる。
他の東アジア諸国と比較して、そういう公共事業性が
比較的に透明性が確保されてきたのが日本ではないか。
どうもそのような気がしています。
個別の権力の恣意を離れて、公的な目的が明瞭に見えている。
多くの国では革命の結果、旧文化が破壊されるケースも多いけれど、
日本では、直近の革命である明治維新でも、
首都機構である江戸の街並みは維持され、引き継がれた。
それ以前の首都である京都に至っては
度重なる戦火で灰燼に帰すことが多かった戦国以降、
相当長期にわたっての公共事業痕跡が残ってきている。
やはり、戦国から江戸にかけて活発だった公共事業も
その痕跡が至るところで維持され、存続してきていると思います。
写真は、「日本橋と越後屋周辺」のにぎわいの復元模型。
当時の世界に冠たる「消費都市」を造営したことが、
具体的なイメージで明確になる。
こうした消費都市が欲する需要を、ほぼ国内産業だけで充足させていた。
それだけ国内の資源開発・産業開発も進んだし、
活発な「交易社会」も実現させることができた。
次の資本主義への移行の基礎は多く、すでに形成されていた。
資源が少ないことは不幸であったかも知れないけれど
その分、創意工夫努力は民族的に血肉化したのではないか。
土木工事で見れば、江戸の開削は築地などという地名が残るとおり
公共事業がその基盤を提供し続けてきた。
日本人は、公共事業が大好きな国民であるように思えてなりません。
問題は目的をしっかりと確認することでしょう。
Posted on 3月 9th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 「都市の快適」研究, 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.