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金沢武家、冬の住宅デザイン

2034

きのうは午前中、金沢の街を散策しました。
なんですが、どうしても住宅関連の場所に目が行きます。
ということで、市内中心部に遺されている「寺島蔵人邸」の見学。
前田藩の中級武家の住宅だそうで、400石取りの家系。
1石というのは、おおむね1人の人間の1年間食べるコメに相当する。
その収入に対して、藩主への御恩と奉公の関係での
忠誠義務が課されながら、江戸期を過ごしてきた家。
まぁ、そういう固定的な経済では当然のこと、
家を存続させることは困難になっていき、
1777年に建てたあと、建物は半分以下に減築したりしていた。
まことに、経済で見ても過酷だっただろうと思うのですが、
それ以上に、きのうの金沢、日中気温10度くらいで温暖でしたが
そういうなかでも「開放的」な家の中は、ただひたすらに寒く、
開放型ストーブにかじりつかれながらの
解説ボランティアの方の説明を聞いていました。
この家の見どころとして庭木が見事だという説明ですが、
冬真っ盛りの状況の中では、繊細な枝振りを保護する「雪吊り」が見えるだけで、
まさに夏のことしか眼中になかった生活文化のようすが
淡々と、やや誇らしげに説明されていました。
で、帰り際にしげしげと見入ってしまったのがこの玄関。
この、あくまでも夏の気候に最適化された、
通風だけを目的としたタテ格子の引き戸建具の視線の先に
ごらんのような「雪吊り」が見えている。
どうも、見る側の意識として不可解さに戸惑わざるを得ない。
家を飾るデザインとしての庭木を冬の装置で保護しながら
当然ながら、人間の素朴な温熱的感覚は、まったく無視されている。
夏のデザイン空間のままに冬をまるで、ないことのように過ごす。
まことに徹底しているというか、なんというか。
「見える」機能と夏場の通風しか考えずに、こうした建具を当然としている。
このように過ごす「温暖地」という地域での冬というものの
過酷な室内環境について、呆然とせざるを得ませんでした。

江戸期末期、北海道にロシアやアメリカ船が出没して
日本各地の藩が、防衛のために藩士を北海道に派遣したが、
その派遣兵士たちの多くは、一戦も交えずして死んだ。
それは、各藩が建築した「越冬」家屋が、まったくの開放型住宅で
冬の間の人間の健康保護を無視していた結果、寒さから健康を害し、
多い藩では過半数の藩士が帰ってこられなかったという。
こういう温暖地の「住宅思想」の過酷さの一端を、
まさに「垣間見させられた」気が、いたしました。
いったい、こういう「断熱思想・暖房思想」のない冬のなかで、
どのようにして、ひとびとは生き延びてきたのか、
そしてそれは現在に至って、本質的に解決されているのかどうか、
深く思いを致してしまった次第であります。

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