わたしは伝統的な演劇などを鑑賞するのが好きなんですが、
そのたびにいつも感じさせられるのが、日本人が生きるときに
必ず持ち続けた人生価値観としての「義理と人情」です。
以下、OKウェイブからの要旨抜粋。
〜「義理人情」と一括りにされますが、義理と人情は全く別物で
時には両者の板挟みにあうこともあります。
義理とは、簡単に言えば、人間関係のしがらみに基づく義務。
目に見えない貸し借り、力関係と思えばいいです。
例えば、恩人に対しては借りがあります。
恩人や恩人の家族、遺族が困っている時に、その人を助けてあげることは
かつての借りを返す行為であり、「義理」にかなった行動です。
これに対して人情とは、損得貸し借りを超えた、まさに「情」です。
人間関係のしがらみ、貸し借りは一切関係無し。赤の他人でもOK。
見知らぬ国の子どもたちが飢え死にした話を聞いて
かわいそうだ、とか、気の毒だ、と思うのは人情です。〜
大体、古典的な芝居の演目では
かならず義理と人情の板挟みで懊悩する姿が描かれ
その観客との感情の共有が、いこか、もどろかと
七転八倒する人間の姿に仮託されて劇的空間が盛り上がっていく。
その内面世界の葛藤に、日本人であることの
深い共感なり、生きる辛さなりが表現されている。
そしてはるかな時代を超えて現代を生きているわれわれも
同じ心性を生きるものとして、親近感を持たざるを得ない。
古典芸能を見る最大の楽しみは、案外こういった部分にあると思う。
江戸期に繰り返しヒットした演目である心中ものなどは、
まさにこの世界を描いて、日本人のこころを涵養した。
この義理と人情、言い換えると
「顕教と密教」というようにも言い得るのかも知れない。
常に顕教的世界がこの世を支配しているのだけれど、
その「ことの内側」では、濃密な密教的人間の煩悩、懊悩が
逆巻くように波打っているような感情世界が展開している。
しばらく、こういった古典芸能に接していない。
やはり北海道にいると、こういう日本人的心性を確認するような
機縁が少ないと、いつも思っています。
やや悲しい。
<写真は空蝉。諸行無常であります(笑)>
Posted on 8月 4th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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