きのうも好天に誘われて遠出しました。
最近はほぼ年に1回は行っている、後藤純男美術館であります。
札幌から上富良野ですから、だいたい2時間くらいのドライブですが
往復で260kmくらい。
コースは札幌から高速道央道を北上して、岩見沢を抜けて三笠で下り、
そこから山道を富良野まで出て、国道をさらに北上というルート。
道々、早春の自然を眺めながらの走破になります。
そして、美術館に着くと正面には写真のような十勝岳連峰の山容。
後藤さんの絵でもこの山々は描かれているので、
その現実の山と、画家のインスピレーションを経た絵画との距離感も楽しめる。
日本というもの、その自然を描き続け、一番大きな画題として
北海道の自然に独特の思い入れを持っていただいた後藤さんの絵を見るのに
こういったルートを経て、絵と対話に至るというのも
一連の鑑賞行為になっていることに気付きます。
きのうも、この時期らしく、
サクラの古木を2双の屏風で描いた圧倒的な量感の作品と向き合っていました。
天地が1.8mくらいで、左右は10mを越すような作品であります。
それと、十勝岳連峰を描いた作品のふたつとずっと対面していました。
後藤さんの作品を北海道で身近に見ることができるというのは
たいへん素晴らしいことで、稀有な幸せなのではないかと思っています。
なんどもこれらの絵を見続けているのですが、
こちらの心象が違ってくることで、
毎回、つねに新鮮な感動を覚えることが出来る。
きのうは圧倒的な量感のサクラに心を奪われていた次第。
やはり北海道は、日本人がいちばん最近獲得した感受性を刺激する風土であり、
日本画家の感受性を通した美意識を感受しながら
いわば拡張した日本人の「花鳥風月」について、
いろいろに想像力の自由な広がりを楽しませていただけました。
この列島で人間が住み暮らし続けてきた中で
ある独特な共有可能な感受性が育ってきた部分があるとすれば
それはやはり「花鳥風月」なのだと思います。
そしてそのなかでも、サクラはある典型になっている。
こういう民族的輪廻の中に自分自身もまるごと包み込まれていることを実感できる。
樹齢1500年と1000年という双曲の桜図は
その形にしろ、色合いにしろ、匂い立つたたずまいにしろ、
直接的に日本の美意識について、圧倒的に訴えかけてくる。
そしてこういった画業が、欧州でもアメリカでも、そして中国でも
多くの人々のこころに大きな印象を与えてきている。
中国では後藤さんの名を冠した美術学校もできているそうです。
国際関係はさまざまに難しいけれど、
絵画というような、ひとびとのこころの交流までは妨げることは出来ない。
そんな希望を抱いたりもできる。
しかし、サクラであります。
なぜ日本人はこのサクラにこうまで民族的に惹かれ続けるのか。
逆にほかの民族の人々は、どうして花見というような精神文化を持たなかったのか。
この列島社会での人間のありよう、
時間の積み重なりをゆったりと想像する、豊かな時間を持つことが出来ました。
ありがとうございました。
Posted on 4月 14th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.