ことしもついに大みそかですね。
きのうは、「あまちゃん」のダイジェスト版が一気に放送されていて
断続的に視聴しておりました。
わたしたち夫婦は、完全にあまロス症候群でして
能年玲奈ちゃんが顔を見せると、あの空気感に
完全にアタマが支配されてしまう。
ダメですね、ちょっと見たら、もう目が離せなくなって、
あのシーン、このシーンが思い起こされて、ジンと来てしまう。
ダイジェストでは放送されなかった印象的な場面も多くて
われながら、そのハマりぶりに呆れてしまいました。
で、本日は何年ぶりかで紅白歌合戦を見ることになるでしょう(笑)。
なんですが、
その合間を縫って、坊主も一緒にカミさんの実家へ。
その帰り道、札幌市中心部の銀行を記帳行脚。
カミさんが記帳に走っている間、
坊主と、札幌の街の様子を巡って会話しておりました。
わたしは、北海道の戸建て住宅の「居住性」の向上が
大きな事業領域で過ごしてきたわけですが、
もうちょっと広く、人間環境ということに視野を広げて、
札幌という都市環境の「ここちよさ」について、いろいろに話し合いました。
わたしは、年来、札幌の街の魅力の無さというか、
街の表情の乏しさについて、危機感を持ってきております。
札幌は碁盤の目のような整然とした都市計画が基調的な計画都市であり
それ自体は悪くはないと思うのですが、
そしてモータリゼーションの時代には一定の優位性もあったと思うのですが、
いま、見返してみると、
その街区の魅力のなさ、想像力の欠如が目についてなりません。
東京は、慢性的なクルマの渋滞が指摘されますが、
しかし、低炭素型のコンパクトシティとして見返してみると
日中、たぶん3000万人規模の働いて動いている人口が
主に公共交通機関を縦横に利用して過不足なく
コミュニケーション活動を営んでいるという意味で、
たいへん未来都市的魅力を放っていると、わたしは感じています。
高層に積み上げられた労働・コミュニケーション空間が
密度高く空間構成され、
その高密度の中に、広大な緑地環境も適度に維持され、
また神社仏閣や、古い木造街区などの
低層で皮膚感覚に訴求するような「いやし」の空間も点在させてある。
人間の活動環境としての都市の魅力に於いて
ある意味、未来的な人類共通の目標価値観がどうも実現しているように
そんなふうに思えてなりません。
2020年のオリンピック開催は、そんな都市環境が世界に再評価される
大きな契機になるように思われるのです。
こんな考えはまだ少数派だとは思うのですが、
しかし今後の人口減少社会を考えると、
高密度コンパクトという都市形状は、人類的目標だと思うのです。
そうなることが、エネルギー利用の面でもはるかに合理的になる。
で、そんな思いで現状の札幌の街に
大きな危機感を抱かざるを得ないのであります。
北海道ではこの問題を大きく訴求していきたいと思うのですが、
行政単位としての「札幌市」には、どうも
このような発想力がないのではないかと危惧しております。
そうでなくとも札幌市は、北海道という行政機構に対しての
対抗的な意識ばかりが強く、
合目的的な未来都市環境構築というような考えが見られない。
まことに懸念させられている次第。
すこしづつ、こうしたことについて、
訴えていかねばならないかなぁと、そんな想念を抱いております。
年末年始のこのブログから考えてみます。
Posted on 12月 31st, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 「都市の快適」研究, 日本社会・文化研究
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