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集村・散村・郊外型住宅

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今回の東北出張で、ふと見かけた農家とおぼしき住宅風景。
東北では、「散村」よりも「集村」形式の集落が多いと思います。
集村も現代の「郊外型住宅地」に繋がってくるような
そういった部分が感じられてたいへん面白い。
ただ、昔の集村には、必ず神社や祠、寺などの宗教的施設があって、
村落共同体の一体感を機能させる装置が仕掛けられているけれど、
現代の「郊外型住宅地」には、まったくそのような仕掛けがない。
勢い、「集まる」ということに吸引力がなく、
いわば「地域力」とでもいえるようなものが決定的にない。
最近、人口減少期に入っていって、
都市周辺に展開した「郊外型住宅地」が、存続の危機に直面している。
そういった「郊外型住宅地」を抱える自治体などから、
「どうしたらいいか?」というような問いかけもあるけれど、
民俗的視点から言えば、そのような吸引力を持たない、
いわばバーチャルな「地域」には存続していくだけのパワーはないと思う。
というか、そのような「郊外型住宅地」に建てられた住宅は、
本来的な意味合いでは、「散村」型住居に近くて
近隣関係というのをなるべく想定していないのだと思う。
基本的には「世界にひとつだけ」の、その家族の住まいであって
それがどこに立地し、どのような近隣関係を考えていくべきなのか、
そのような想像力を基本的に持っていない。
それらの「街」の基本構想を作った人たち、建築に携わる人を多く知っているけれど、
かれらの実態は、図面上での架空の「街」を創造したのであって、
せいぜいが、欧米型「郊外型住宅地」の祖形をなぞっていたに過ぎない。
そこにこの列島社会で永く存続してきたような
「集村」的な存続の仕掛けなど、皆目なかったのだ。
宗教的な、神社や寺院の共同体意識形成のような目的がまったくない
「集会施設」などをいくら作っても、
それこそ仏を作って魂を入れず、ということに結果してしまう。

その反対に、この写真のような
ある「個」的な主張とか、生き方というような生き様にこそ、
わたしたち現代は、方向性を持ってきたのだと思う。
確かに現代に「文化」はあるけれど、
それは集団的な集中性とは正反対の、個人の内面性に向かってきたのだと思う。
そのような「志向性」に、果たして未来へ残っていくものはあるのか、
論ずべきものは、そのようなことではないのかと思っています。

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