きのうご紹介した、厨川神社の谷を挟んだ反対側には、
「貞任宗任神社」がありました。
こちらの方には、寄進した人物の名前が記されていました。
近年になって建立されたのではないかと思われるのですが、
なぜか、その社の隣にかわいい、小さな社が建てられていました。
「ん、なんじゃこれ?」っていうところであります。
推定するとすると、どなたかこの神社の「寄進者」のかたの
縁者のこどもさんが幼くして亡くなって、
その「弔い」として建てられたのではないかと、想像させられました。
まさか、平安末期の動乱期の犠牲者である、
安倍氏の貞任のこどもが祀られている、ということもないでしょう。
まったく想像するしかありませんね。
インターネット上で探してみたら、
安倍館遺跡(厨川城跡)は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵(くりやがわのさく)跡または嫗戸柵(うばとのさく)跡として、また、中世工藤氏の居城跡として伝えられてきた。
しかし、安倍氏の柵跡については、今のところ不明のままであるが、江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。
文治5年(1189年)源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。
やがて、岩手郡の地頭は北条氏へと代るが、工藤氏は厨川の地に存続した。
室町時代の工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれた。
この城は、天正20年(1592年)に取り壊されるまで、不来方城(後の盛岡城)雫石城とともに岩手郡の拠点的な城の一つであった。
~盛岡市遺跡の学び館刊行 パンフレットより~
っていうような書き込みを発見できました。
遠からずと思える記述ではあるのですが、
学会的に正規の見解だとも思われない。
その消息をつたえる情報のひとつ、というようなことでしょうか。
それにしても、この小さな社のことはまったく記述がない。
謎解きのために、訪ねてみたのですが、
かえってまた、大きな(?)謎かけをされてしまった(笑)。
でも、そのあまりのかわいらしさに、なにか、伝わってくるものがありました。
Posted on 9月 15th, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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