さて、ここんところ、というかこの10年以上前くらいから、
全国の神社をよく散策して歩くようになっております。
それぞれの地域に「鎮守」として、
個性豊かな神社が存在する。
日本には、西欧的な概念としての「パブリックスペース」というものは
そのままでは存在しないように見えるけれど、
鎮守の森が果たしてきた役割自体は、語の本来的な意味でパブリックそのものだと思う。
神社の数はいま全国に8万を数えるのだそうです。
これほどの規模で日本人のこころに根ざしてきた文化は、
GHQによる「国家神道」という一刀両断で決めつけられるような存在とは思われない。
いや、むしろ、その国家神道という指摘の流れを代表するような
「靖国」の方が、きわめて異端な神社だと思う。
靖国は、明治の陸軍創設者・大村益次郎の銅像が巨大に鎮座することから
明らかなように、薩長政権がその将兵の鎮魂のために
征服王朝としての軍事的誇示のために首都に造営した特殊な社だと思う。
このきわめて異質な1社の存在が、
全国の神社のパブリック性を見えにくくしてしまい、
国際的な関係を危機に落とし込んでいると思う。
神社の本質は、むしろこの列島社会に根付いていた自然崇拝の残滓に近い。
Wikipediaの「神社」条項の「起源」を見ると,以下のよう。
神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に
臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。
例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
創建が古い神社には現在も本殿がないものがあり、
磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿があるのみの神社、社殿が全く無い神社がある。
「神社には常に神がいる」とされたのは、
社殿が建てられるようになってからだと言われる。
古代中国にも土地神などを祀る「社」が存在したが、
屋根が付いた社を建てるのは「喪国の社」(『礼記』郊特性)とされ、
日本の社とは異なる。そのため、多くの神社に社殿が造営された背景について
諸説が述べられた。
社会の発展により自然から人格神へと信仰の対象が変わったためとする説、
7世紀後半から盛んに造営された仏教寺院の影響とする説、
武器や貢納物を納めた神庫(ほくら)が先行して存在したとする説、
7世紀後半以後に律令国家が祭祀のため建設したとする説などがある。
古社はそれぞれの縁起により御神体の近くに社殿を構える事が多い。
新しく神社を造営するときは、適当な場所に分霊や氏神を祀った。
場所の選定の仕方は様々で、縁起から選ぶ、清浄な場所を選ぶ、
参拝のしやすさで選ぶなどがある。
社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。
っていうような意味合いの方が、
日本的感受性として受け入れやすい。
ヤマト朝廷という存在も、こうした列島住民の価値認識に沿うように
神社文化を利用してきたのだろうと推測する。
縄文以来の根強い自然崇拝をかたちにしてきたものの残滓が
そこに投影しているのではないか。
そんな思いを強く感じてきている次第です。
Posted on 8月 31st, 2013 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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