ただひたすらに、寒うございました。
やれやれ。
なぜ、晩翠草堂か、といいますと、
きのう、東北大学の工学部・吉野教授のインタビューを企画したのですが、
その場所をどこにしたらいいか、スタッフが考えてくれまして、
この「晩翠草堂」になったのですね。
場所は仙台市青葉区大町1−2−2と、青葉通りに面してもいる建物。
曰くをインターネットで公開されている情報で、紹介しますと、
青葉城から再び仙台駅に向かって青葉通りを歩いていると、「晩翠通り」にぶつかる。この晩翠通りには、仙台が生んだ代表的詩人・土井晩翠(1871〜1952)が晩年に住んだ家が残っている。それが「晩翠草堂」。晩翠の名字は正しくは「つちい」である。しかし、1932(昭和7)年に「どい」に改めている。おそらくあまりに間違えられることが多かった からだろう。
1899(明治32)年に発表した第一詩集「天地有情」が出世作となった。その後、旧制二高(現・東北大学)の教授を務めるかたわら詩や英文学の翻訳を発表。とくに滝廉太郎(1879〜1903)が作曲した「荒城の月」の作詞家として知られている。「荒城の月」の舞台のモデルとなった青葉城(仙台城)内に碑と銅像が建っている。 1945(昭和20)年7月の仙台大空襲で晩翠は屋敷と三万冊の蔵書を焼かれてしまう。その晩翠を慰めようと、教え子や市民が1949(昭和24)年に建てた家が、この「晩翠草堂」である。妻に先立たれた晩翠は、80歳で亡くなるまで、この家に独り暮らしていた。
「晩翠草堂」は、晩翠生前の姿そのままに、身の回りの品などが展示されている。こじんまりとしているが、落ち着いたたたずまいの屋敷である。草堂の庭にあるヒイラギモクセイの木は、空襲で焼かれても蘇ったそうである 晩翠草堂の庭 また、草堂の表通りに面して立っている碑は「天地有情」の碑 。言うまでもなく、晩翠が世に認められるきっかけとなった第一詩集の題名である。
というようなことなんですが、要するに東北大学つながりなのかなぁ?
で、先生に「宮城野住宅について、その性能について」というテーマだったので
なんともまぁ、とんでもなく寒いのでまさにぴったり!
青葉通りはまだ、鬱蒼とした木立の状態なので
日中、日が当たることもなく、昼なお寒い環境。
夏を旨とした暮らしようがそのまま表現されたような住まいですね。
年平均気温で関東以南がほぼ全都市、おしなべて16度であるのに対して
仙台は12度。札幌は8度。
札幌は関東以南とはかなり違う家づくりの方向に向かったが、
仙台はなぜか、関東以南と同じ感覚の中にいる。
堪え忍ぶ冬、というような悲壮感はないのだけれど、
インターナショナルな「快適性」からは縁遠い冬を過ごしている。
さて、どのように考えるべきか、というようなお話の場としては
背景装置はまさにぴったりでした(笑)。
時間は1時間弱でしたが、
市の管理施設なので、万が一の火災のおそれなどからか、
暖房はされていないし、そのうえ、電気もコンセントを使えないのです。
まぁ、やむを得ないとは言えるのですが、
堪え忍ぶ時間でしたね。先生、申し訳ありませんでした。
Posted on 11月 28th, 2007 by replanmin
Filed under: リプラン&事業
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