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高齢化社会での男の人生行路

最近、高齢化社会のなかで
ペアである男女の寿命の違いによる人生岐路のことをよく聞く。
あるケースでは、奥さんの方が先に亡くなることは想定外ということで、
遺された男性のみではなく、その子ども世代の人生行路にも
大きな影響を与えてしまうケースを知りました。
男性にとって、パートナーである妻が自分より先立つというのは
耐え難い人生苦難をもたらすものだと実感させられる。
とくにいま、高齢者になっている世代は、
夫唱婦随というのが、人生行路の基本的思想だったので、
夫は経済的に妻を支え、妻は夫に尽くすというのが基本の社会だった。
写真のような祝福の席を経て、人生は開かれていった。
そういう風潮の中で、とくに男性は
家庭的サービスについては、なによりも大前提で考えていた。
まるで空気のように存在しているものだと思い込んでいた。
それが「想定外に」条件が破綻したとき、
そういったことへの対応策というのがまったくない場合、
その「破綻」が、大きく拡大せざるを得ない。
途端に、毎日の衣食住生活全般において、
対応準備がないことに,自分自身が驚愕せざるを得ない。
そこに精神的負担が大きくかかり、それが健康状態にも悪影響して
多くの病魔が襲ってきたとき、
男の人生というのは、まことに脆さをさらけ出さざるを得ない。

団塊の世代よりもやや若いわたしのような年代では、
男も調理をしたり身の回りのことを自分で出来る男性というのが
すこしづつ増えていって、
より若い年代に行くに従って、そうした傾向が強まっている。
社会の変化への対応として、無意識レベルで対応した結果なのか。
わたしは、子どもたちからよく
「お父さんの作る○○が食べたい」と言われることがありますが、
母の味より父の味、みたいな社会変化が起こってくるかも知れない(笑)。
それは極端な例えかも知れないけれど、
男にしろ,女にしろ、人間単独でも身の回りのことは
自分で裁量し、最低限のことは果たせるようになっていかないと
生存自体が厳しい社会になっていくのかも知れない。
長生きは誰もが希望することだけれど、
それが幸せに送れるかどうかは
保証されてはいない、というのが
今日この国で進行している「高齢化社会」なのでしょうね。
もって瞑すべし、そんな思いに駆られます。

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