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日本人が癒されてきた空間

北海道に長く住んでいると
だんだんと、この地に似合った文化スタイルのほうに心が向かいます。
暖房は、写真のようないろり程度ではまったく太刀打ちできず、
また、室内で炎を燃焼させればその分に応じて水分が発生して
構造である木材に、徐々に水分含有率が上昇して
結露から来る腐朽から、構造が劣化するというサイクルになっていく。
そういう輪廻から逃れなければ、ここで長く安心して住む家はできない。
そこは、当然のこととして受け入れられる。
しかし、その結果として壁が大壁になり、
構造材がプラスターボードで被覆され、その結果として
壁紙、多くの場合はビニールクロスで仕上げられてしまうことになってしまった。
無機質な、無表情な、いかにも空間を切り取りました、という
そういった無感動な空間に至るのが自然的な趨勢になった。
今日では、そういう空間性にも積極的な意味合いを感じ取るひとも多いけれど。
しかし、ではそういう空間でどういう日本人的感受性が涵養されるのか、
というテーマで考えると、まことに心許ない。
やはりデザインがどうあるべきか、
構造要件から必然性を持っていた日本的空間美から、
結果として疎外されざるを得なかった北海道では、
どんな「新しい日本人的空間美」が育っていくのだろうか?
わたしは、そんな思いを強く持ち続けて来たように思っています。
この写真は、東北地方・会津の古民家での様子ですが、
こういう空間美とも、雰囲気の美とも言えるような空間性の持つ
「癒やしの力」の破壊力には、完全に脱帽せざるを得ない。
こういう囲炉裏端で、自家製の漬け物でも出されて、
それを酒菜に地酒を酌み交わすような時間のもつパワーには圧倒される。
空気を暖めると言うよりも、人体に直接輻射熱を加える薪の暖かみは
芯からひとを寛がせる。
考えてみれば、こういう雰囲気の中には、
家父長制であるとか、地域社会との濃密な関係性とか、地方性とか
そういった「社会システム」そのものの繭のような安心感が、
裏側の安心システムとして機能していたのだと思う。

しかし、こういう空間は今日の社会とエネルギー事情からは
やはり不似合いに過ぎる。
現代的な生活からは乖離がありすぎる。
すでに家族数の決定的な減少が現実になってしまっている。
社会システム自体が、大きな揺れ動きの中に叩き込まれているのだ。
どうしても、こういう「雰囲気」を現代風にアレンジして
あらたな空間性の美に、わたしたちは向かう必要がある。
結局、北海道もその他の地域も、
同じような志向性を持って、住宅のデザインを考え続けていかなければならない。
そんなことを考えさせられています。

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