札幌市の南方面には、石切山という
果たした機能そのまんまの名前の山があります。
明治初期、札幌の街の建築をいろいろに作ろうとしたとき、
地元にある、使える良い材料、ということで探したのだろうと思うのです。
そういうときに、たとえば野幌という近郊の地域の土を焼いて作った
煉瓦だとかが、産業化もしたのです。
ご存知のように、北海道庁旧本庁舎、いわゆる赤煉瓦庁舎は
それ自身、殖産振興のために建てられたものとも言えるのですね。
その後の煉瓦産業の進展と、モデルハウスとしての庁舎建物は、
「近代産業」創造のひとつのモデルだったとも言えます。
そういう、アメリカ的な「組石造」の建築文化が根付き、
その流れのなかで、石切山の石、「札幌軟石」も
札幌の街の代表的な素材として使われていったのですね。
建築的には、完全な組石造ではなく、
木造で基本構造を作って、その外皮として使用する「木骨造」だったようです。
現在残されているものでは、郵便局舎など、ある程度公共的な施設、
堅牢性と、長期的な耐久性・耐候性が考慮されるべき建築に
多く利用されてきていたのがわかります。
そういう札幌軟石が、このお宅では、塀に利用されていました。
「ウチはこんなところでも、札幌軟石使っているんだぞ」
というような建て主さんの誇りを刺激する目的だったのか、
あるいは、この当時は価格が下がって、利用しやすい条件があったのか、
いまとなっては、想像の域を出ませんが、
札幌に育ったものにとっては、この石壁の陰影間・質感というのも、
忘れがたく、DNAに刻み込まれるような視覚記憶の世界。
いろいろな地域で建物が建てられるときに、
結局最終的に愛着のよすがになっていくものは、
こういう素材の部分が大きいと思います。
また、それをいかに印象的に、残り続けるように使えるかが、
「建てるプロ」たちが問われ続ける部分なのでしょうね。
以前に、実家にあったこの札幌軟石のリンゴ倉庫を
そのまま、自分の住む家にしたいという願いを持った施主さんがいて、
縁あって、お手伝いしたことがあります。
そのとき、こういう視覚記憶の部分が、
人間の成長のプロセスで、いかに大きな部分を占めているか、
まざまざと、実感できたときがあります。
いま、作られているものは、そんなものを伝えられるような建物・住宅建築として
果たして、機能し続けていけるのだろうか、
大企業の工場生産で、日本全国ほぼ均一な素材が流通する、
いまの状況は、「地域らしさ」を消し去り続けているだけなのかも知れません。
考えていかねばならないポイントだと思います。
Posted on 7月 8th, 2007 by replanmin
Filed under: 古民家シリーズ
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