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現代史教育の不在

日本には「国家戦略がない」と言われ続けています。
ないのは当たり前だと思います。
それは中学校や高校の授業で、日本史の授業で近現代史をネグレクトしているから。
確かに戦後の日本史って、直接現代の政治的思惑がからまって
客観的に評価することは難しいでしょう。
しかしそういうことを放置し続けてきて、現在の不毛な状況がある。
きのう迎えた「終戦記念日」ですが、
あの戦争について、その名前すら明確な規定が行われていない。
太平洋戦争というのは単に、対米戦争を表すに過ぎず、
それ以前に泥沼化していた中国への侵攻とセットで名付ける名称が確定していない。
アジア太平洋戦争などとも名付けられているそうですが・・・。
いずれにせよ、その戦争目的と共に
名前すら明確でないほどに、国家としての自覚的な目的性もなく
また、アメリカとは戦う意志も薄弱なまま、
戦争指導の退廃のままに戦線を無目的に拡大してしまった。
戦前の日本の戦争の戦略を学会で論議している資料を見ても
これが日本の国家戦略だという明確な資料が見当たらないと言われている。
対米戦争に至っては、ドイツがイギリスを降伏させることに期待して
それがアメリカの戦意喪失を招くという一縷の望みを開陳しているに過ぎない。
最後の陸軍大臣に至っては、呪文のような精神論だけしか言葉を発せなくなった末に
最後の関東防衛について必要な武器弾薬すら、
9月にならなければ配備できないという補給の無計画ぶりをさらけ出して、
ただひとり、8月半ばの玉音放送の日の朝に自決した。
戦争の負けっぷりはどうであったのか、戦後の日本を考えていくのに、
その基盤になる敗戦の教訓、国家戦略の破綻内容すら十分に論議されていない。
もちろん、占領政策で日本の無力化が目的的に追求されたこともあって、
こうした「普通の国」としての国家戦略を持たないように
不断に統治されてきたというのが、実態ではあるのでしょうが、
今にいたるも、そうした状況であるというのはなんとも無惨だといえる。

そういった意味では、
敗戦に至った戦前の最後の状況を見れば、
日本には「国家戦略」を自力で構想するようなことは無理なのであり、
これから先も「普通の国」にはなれない可能性の方が高いのかも知れない。
歴史的にも、地政学的にも日本は大枠としての
集団的安全保障体制のなかでしか存立していけないということか。
そうであれば、現実にそうであるアメリカの世界戦略の中でのありようしか、
今後もありえないのではないでしょうか。
最近の世論調査では、橋下さんの「維新」が伸びそう、ということだそうですが、
どうも政治が本格的に浮き草的な漂流を繰り返していく方向だと
思われてなりません。
自民党の長期政権の後、なんども繰り返された離合集散、
目新しさだけに右往左往する選択がふたたび繰り返される可能性が高い。
国民としては、そういうなかで
どう生き抜いていくか、よく考えていくしかなさそうですね。

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